第九 〇回 ②
ヒスワ楚腰道を断ちて光都を囲み
ヒィ・チノ隻眼傑を得て南伯に任ず
「どういう意味だ」
ヘカトが尋ねれば、サルチンは答えて、
「使者が一人も帰ってこない」
「包囲が厳しくて我らに伝える術がないのだろう」
「それほど厳重とも思えぬ。夜間なら悠々突破できる」
「何を考えている」
サルチンはしばらく黙っていたが、やがて言うには、
「私がヒスワだったら、一軍を派遣して駅站を断つだろう、と」
ヘカトは俄かに青ざめる。そして言うには、
「まさか! ではヒィ・チノは我らの窮状を……」
「知らない、とも考えられる。だとすれば、援軍は期待できない」
言葉を失って黙り込んでいるところに、嫋娜筆コテカイがあわててやってきて、
「これをご覧なさい。さっき街道でこんなものを拾ったんだけど……」
差し出したものを見れば、何と城内の傭兵に宛てた檄文。読み進むうちに二人の顔色はみるみる変わる。その内容は光都の支給する倍額をもって翻意を促すもの。
傭兵はもとより報酬のためにはたらく。恩義や忠誠とは無縁の存在である。倍額ともなれば動揺は必至である。即座にサルチンは傭兵の営所に赴いて、給与の増額を約した。しかし恃みの傭兵に調略の手が延びていることは脅威であった。
サルチンは再びヒィに使者を派遣することにした。今度は駅を使わずに行くよう指示する。迂回すればときはかかるが、駅站が分断されている可能性があるためやむをえない。
「我らは奸人を侮っていたようだ」
手配を了えたサルチンは悔しそうに吐き捨てたが、この話はここまでにする。
さて神都軍の南下に呼応して、金杭星ケルン・カーンはズイエ河を渡った。その数、三千。ヒィはそれが光都攻囲と連動しているとは想像もせず、ただちに迎え撃つべくモゲトを派遣した。
この常に先鋒を託される猛将は、鋼のごとき体躯を有することから「小金剛」の渾名を奉られていた。
さらに大規模な侵攻に備えて兵をズイエ南岸に移動させると、ヒィ・チノ自身もオルドを出て北へ移った。かくして東原の二大勢力は南北でそれぞれ睨み合う形勢となった。
さて、その中でいずれにも属していない一団があった。イルシュ平原の東方三百里に牧するムルヤム氏である。
騎兵数百を有するのみのこの小氏族の族長は、シノン・コムトなる青年。渾名を「隻眼傑」と云う。名の示すとおり、左眼を矢傷によって失っていた。小勢ながら蓋天の気概を抱き、間諜を放って東原の情勢をじっと窺っていた。
「秋だとは思わぬか」
傍らの将に問いかける。幼少よりの盟友、ヤマサン・マシャである。やはり渾名があって、すなわち「笑面獺」。
「ヒスワが駅站を扼したため、光都は風前の灯……。ヒィ・チノはセペート部の南下に目を奪われている。まったくヒスワは大略を出すことにかけては東原一と言ってよいだろう」
「ふふ、それならなぜ奴は雄飛できぬ。西でインジャに敗れ、東でヒィ・チノに睨まれ、都城に逼塞しているではないか」
ヤマサンは笑って答える。
「英雄ではないのだ。戦は机上ではできぬ」
シノンが話題を変える。
「我らは単独では塵芥のようなものだ。仕える主を誤ってはならぬ」
「今はヒスワとエバの連合が優勢だぞ。さしもの神箭将も後手に回っている。しかもまだそれに気づいていない」
その言葉には応えず、
「隻眼傑の名を知らしめるためには、ただ臣従してもおもしろくない。数多の小氏族の末に連なるばかりだ。俺がナルモントに生まれていればよかった」
「そんなことを言うのは君らしくない。で、どうする?」
「俺の心は決まっている。数百騎をもって神都に投じても重用はされぬ」
ヤマサンは笑みを浮かべて、
「それでなくては。しかしそれはヒィ・チノも同じだぞ」
「認められるだけの戦果を挙げる。情勢を覆すほどの戦果だ」
「聴こう」
シノンはおもむろに顧みると言うには、
「イルシュの鼎目蛇を討つ」
「敵は三千、我が軍の数倍だ」
「勝てぬと思っているのか?」
「いや、まさか」
二人は笑い合うと、早速手勢を集めた。黒の軍装に身を固めた精鋭である。シノンは一切の説明をせずにこれを進発させた。総勢四百騎である。草原を疾駆して、瞬く間にイルシュ平原に到達する。
「このまま突っ込む。容赦なく追いまくれ」
シノンの隻眼が光を帯びて、黒い獣のごとく駅周辺に営するキュロイ軍に襲いかかる。