第 九 回 ③ <ヘカト登場>
コヤンサン神都に往きて津に二商と争い
ハツチ大道を巡りて楼に一将を誘う
やむなく別に舟を見つけて従者と乗り込む。やがて舟は静かに岸を離れる。
コヤンサンは、ゴロのことを思い出すにつけ無性に腹が立ってきた。あの男は草原の民を侮っているに違いない。自分は弓もろくに扱えぬ商人のくせに……。
次第に怒りが昂じて、
「ひと泡吹かせてやる!」
あまりに突然大声で叫んで、しかも舟底をどんと叩いたものだから、ほかの客はおおいに驚く。船縁にいた一人に至っては、どぶんと河に落ちる始末。
あわててみなで手を差し延べて助けたが、期せずして冷たい水に浸かったその男は身体が冷えて、くしゃみが止まらなくなる。コヤンサンは内心おかしくてしかたなかったが、頭を掻きつつ謝った。
「やあ、これは失礼した。申し訳ない」
「気を付けてくれ。寒くて死にそうだ、ああ、寒い寒い……」
ぶつぶつ言いながら震えている男をよく見れば、どこか尋常ならざるところがある。もしかすると並のものではないかもしれんとて話しかけて言うには、
「やあやあ。少しは落ち着いたか? 酒があるといいんだが、あいにくと禁酒中でね。ほかの客に分けてもらおうか」
「うるさいな。放っておいてくれ」
「まま、そう言わずに」
傍らの客に酒を分けてもらって勧めれば、当惑しながらもひと息に飲み干す。みるみる顔に朱が差して、漸く落ち着いてきたようである。
「やや、顔色が良くなったぞ。よかったなあ。ところで名は何というのだ」
男は面倒そうに答えて言うには、
「俺の名はヘカト。神都で店を開いている」
「すると商人か」
「そういうことになるな」
するといきなりコヤンサンがこれに拏みかかろうとしたので、舟がぐらぐらと揺れる。船頭が泣きそうな顔で、
「お客さん、お願いだからおとなしくしといてください。舟がひっくり返っちまう!」
はっとしてまたまた謝ることとなる。いったい神都へも着かぬのに何回謝ったことやら、これから街に入ってサノウを捜し、しかも連れて帰るとなると、この先何度頭を下げることになるか計り知れない。
一方のヘカトも何が何やらさっぱり解らぬが、拏みかかられて喜ぶ道理もないので、むっつりと黙り込んでしまった。そうこうするうちに何とか東岸へ着いた。コヤンサンはさっさと降りて城門を目指す。
言い忘れたが、馬は西岸に設けられた厩舎に繋いである。神都は防衛上、自軍の馬を除いては原則として渡河を禁じている。
それはさておき、このとき颯爽と神都に乗り込もうとするコヤンサンの肩を把むものがあった。先のヘカトである。地上に立って改めて見れば、
身の丈は七尺半に少々足らぬくらい、四角い面に光る眼は狐か狼のごとく、恰幅の良い胴回りはコヤンサンに比べても遜色ない。
「何だ、何か用か」
ヘカトは細い目をかっと見開いて、
「何だではない。先の非礼を詫びよ」
詰め寄ったが、コヤンサンはきょとんとして、
「お主を河へ落としたのは詫びたではないか」
「それではない! そのあと私に暴力を振るおうとしたではないか!」
「やかましい、商人ごときがでかい口を叩きおって! やるか!」
「道理の解らぬ奴め」
渡し場の空気はたちまち殺気を帯び、周りにはあっという間に人だかり。コヤンサンの従者があわてて押し止めて言うには、
「セイネン様の戒めをお忘れになりましたか。騒ぎを起こしてはいけません、ここは堪えてください」
またヘカトに向き直って、
「お恕しください。主人は気が短く、先ほどある商人と口論しましたのを思い出して、関わりのないあなた様に手を出そうとしてしまったのです。草原の武辺の為すこととてお恕しください」
従者が一心に頭を下げたのに加えて、ヘカトも生来はつまらぬ争いは好まぬ心性だったので、ぶつぶつ言いながらもその場をあとにした。
「待て、逃げるか!」
「セイネン様に報告せねばなりません。自重してください!」
その名を出されては矛を収めざるをえない。やはりぶつぶつ不平を唱えながらも怒りを鎮める。集まった観衆も期待が外れて、がっかりしながら散っていく。
「さあ、三日しかありません。早く参りましょう」
従者に促されて、コヤンサンはしぶしぶ歩を進めることにした。