第八 七回 ④
チルゲイ会盟を前に大慶に狂喜し
ナユテ好漢に従いて新妻を略奪す
莞然として眺めていたアサンが言った。
「あなたは何も聞いていなかったのですか? サチの父親が言ったでしょう。『娘はお前のものだ。何処でなりと捜して連れていけ』と。ですからあなたはサチを略奪して帰らねばならないのです。さあ、花嫁を立たせてください」
なおもぼんやりしていると、チルゲイが声高に叫ぶ。
「草原の慣習はお気に召さぬか? 花貌豹もいつもはせぬ化粧をして君を待っていたのだぞ!」
するとエミル・ガネイが負けじと声を挙げて、
「エミルだよ、エミルが化粧したんだよ! 髪も結ったよ! 綺麗になったでしょう!?」
ナユテはやっとのことで事態を呑み込んで、サチをじっと見つめる。サチは照れて袖で頬を隠すと、小声で言った。
「慣れぬ化粧だ。おかしかろう」
弾かれたように首を振ると、無言で手を差し延べる。サチも応えて手を延ばす。周囲はおおっと声を漏らして経緯を見守る。二人の手が重なり、サチがゆっくりと立ち上がる。ナユテは好漢たちを見回して言った。
「草原の礼は知らなかった。みなには悪いが、ここは街の礼でやらせてくれ」
向き直ると目の前には、サチの装った、そして幾分緊張した顔がある。しばらく無言で見つめ合っていたが、やがてはっきりと言った。
「私は卑しい卜人ですが、妻になっていただけますか」
サチは戦場では決して見せることのない表情、おおいに恥じらいながら、
「……ええ、喜んで」
小さく答える。
みな堪えきれずにどっと囃し立てると、二人を囲んでゲルを出る。車に乗せて、また歌い騒ぎながら道を返す。
車中でナユテは、妻となったサチの顔を改めて眺める。唇には紅も引いている。無論、そんなサチを見るのは初めてである。視線に気づいたサチは、ふっと口許を緩めて、
「やはりおかしいのだろう。慣れぬことはするものではないな」
「いや! そんなことはない。あまりの美しさに驚いているんだ」
サチは笑って、
「神道子は占卜は一流だが、世辞はうまくないな」
「世辞ならもっとうまく言えるさ」
くどくどしい話は抜きにして、こうして二人は夫婦となった。
三日に亘って祝宴は続いた。毎日客人がやってきてはこれを祝ったが、チルゲイは頼まれもしないのにずっとそこに在って接待などしていた。
二日目には潤治卿ヒラトが衛天王カントゥカの祝辞を携えて来た。三日目には遠く紅大郎クニメイなどがやってきて、爆竹で婚礼を盛り上げた。最後の晩、チルゲイはナユテに歩み寄って、満面に笑みを浮かべながら言った。
「どうだい、慶事だっただろう」
軽くこれを睨みつけて、
「そもそも笑破鼓が来る前から仕組んであったのだな」
「ははは、君が放っておくと何もせぬから、花貌豹の両親も含めて、みなで諮ったのさ」
それを聞いたナユテはしばし無言だったが、やがて言った。
「感謝するべきなのかな」
「おや、感謝してもらえるはずだが。君にも、花貌豹にも」
二人は声を挙げて笑い合う。ナユテがふと首を傾げて、
「そういえば君は、慶事がふたつあると言ってなかったか?」
「おお、言ったとも」
「もうひとつは何だ? 教えてくれてもいいだろう」
チルゲイはにやりと笑うと、
「歓喜のあまり道理も見失ったようだな。では聴け。ひとつは君が花貌豹を得ることだが、もうひとつは我々が神道子を得ることだ」
「はっ?」
「以前ナオルに、もし君が花貌豹と結婚したら、君をウリャンハタに貰う(注1)と通告しておいたのだ」
「何だって!?」
おおいに驚いて立ち上がる。チルゲイはすました顔で、
「それはそうだろう。君は新妻が何ものか解っているのか? 我が部族の大将だぞ、おいそれとよそへやれるものか」
「か、考えてもみなかった……」
ナユテは頭を抱える。チルゲイはその肩を叩くと、
「まだ会盟には間がある。そこでだ、中原に婚礼の報告に参ろうではないか。もちろん花貌豹も一緒にな。インジャ殿のことだ、きっと許しが出るだろう」
この提案から神道子は再び旅装に身を包み、中原に向けて大河を渡ることになるわけだが、傍らには新たに伴侶を随え、まさしく衆人の耳目を驚かせる凱旋となる。義君に見えて許しを請い、副主に密約の履行を迫ろうといったところ。
果たして神道子の東帰はいかなる顛末を辿るか。それは次回で。
(注1)【ウリャンハタに貰う】酔い潰れたナユテの横で、チルゲイがナオルに説いたこと。第八 〇回④参照。