第八 六回 ②
アステルノ奸謀を測りて超世傑を警め
サノウ兄名を欲して衛天王を度る
退出すると、アステルノがムジカを捉まえて言った。
「公主ご懐妊だぞ、どう思う?」
慎重に言葉を選んで答える。
「ありえないことではないが……」
それを最後まで言わせずに、
「ありえるわけがない! ハーンを幾つだと思っている。六十も半ばだぞ、子ができる齢じゃないだろう!」
「声が大きい。迂闊なことを言うものではない」
ムジカが制すれば、さらに大声で、
「考えてもみろ、ハーンの末子は何歳になった? 十四だぞ、十四。別に後宮から足が遠のいたわけではない。むしろ新たな妃妾は増え、ハーン自身も矍鑠たるものさ。なのに今まで子ができずに公主だけがご懐妊とはどういう理屈だ? これをありえぬと言わずして何と言う」
放っておくといつまでも続きそうだったので、あわててその口を塞ぐと言った。
「そのとおりかもしれぬが黙っていろ。懐妊は事実だろう。道理に合わずとも事実は事実だ。これにどう説明を付ける?」
「偽言に決まっておろう。時期が来たら別の子を持ってきてハーンの子に仕立てるつもりさ」
「それで?」
アステルノは、勢い込んで言った。
「あの奸婦め、ハーンの位を狙っているに違いない!」
ムジカはううむと唸って、
「そんなことできるわけがなかろう。ハーンはクリルタイの合議で決まる。成年に達した子が何人もいるのに幼児が推戴されるわけはない」
「ハーンが崩御する前に敵を一掃するのさ。赫彗星はその端緒に過ぎぬ。やはり警戒が必要だぞ」
ムジカが答えずにいると、続けて言うには、
「ひょっとすると諸王子にも奸計の手が伸びるやもしれぬ」
「まさか……」
「いや、奴らならやりかねん」
「相変わらず考えが先走るな。さすがにハーンが実子を討つことを肯じるとは思えぬ。様子を見たほうがよい。余人には言うな」
アステルノはふんと鼻を鳴らすと、
「お前が言うなと言うなら黙っているが、俺が言ったことは覚えておけ」
このときトオレベ・ウルチには、亡くなったハトンとの間に生まれた子が四人おり、それぞれ王として牧地を与えられて割拠していた。
長子のイハトゥは東方に広大な所領を有している。齢はすでに四十後半に差しかかっている。
次子オルカク・ウルチは西方に所領があるが、資質はむしろ凡庸である。
三子ドラサンは北方にあり、もっとも英明の名が高い。世評では次期ハーンと目されている人物である。
四子ダマン・マンチクはオルドにある。嫡出の末子が父の牧地を継承するのは草原にあってはごく一般的である。
ほかに妃妾から生まれた庶子は数えきれず、アステルノの言った最後の子もこれら傍流の出自である。彼らのあるものは所領を与えられ、あるものは上記の諸嫡子の上将となっている。
いずれにせよ冷静に考えるならば、いかに梁公主の寵愛が厚かろうと、数多の王子を差し置いて公主の子がハーンとなるのは不可能事に近い。それどころか諸王の子、すなわちトオレベ・ウルチの孫ですら、成年に達しているものがある。
不利な条件はほかにもある。草原では母の出自を重視する。公主は名目上は梁帝の娘であったが、人衆を得心させうるものではない。
むしろ純血を損なうという意味で忌避される。母系が貴くなければハトンにも冊立されないし、もちろん公主はハトンではない。
ハトンの子以外はすべて傍流である。ヤクマン部ほどの大族ともなると、ハーンの資格を有するのは嫡流の男子のみであるから、候補にすら挙げられないということである。
僅かに例外があるとすれば、嫡流の男子がいないとき、またたとえあっても人衆の安寧を保つ才略に乏しいと誰もが認めているとき、さらに傍流でも有無を言わせぬ実力、すなわち強大な兵力を持っているときである。
だがいずれも公主の子には当て嵌まらない。たしかにハトンの実家であるジョシ氏は滅んだが、すでに諸王は幾年にも亘って確固たる勢力を築いている。ジョシの存亡にかかわらず、名望実力ともに揺るぎない地歩が固まっているのである。
先にジョシ追討が命じられたとき、諸王の反対がなかったのを不思議に思うかもしれない。たしかにこれがハーン以外の手に因るものなら、実家であるジョシ氏を守るべく一致団結して兵を挙げただろう。
しかしこれは大ハーンの、そして実父の命令である。ゆえに諸王も諦めて従ったのである。ただその胸中は複雑だったに違いない。
一方、庶子の中にはジョシ氏の没落を内心喜んだものもあった。もしかすると、嫡流たる諸王が廃されるかもしれぬと期待を抱いたのである。彼らはもっとも熱心にジョシ氏の残党を追った。
筆頭は第四夫人の子であるマンドゥ、ピンドゥ兄弟である。二人とも幼少のころより騎射に長じており、侍衛軍の一軍を任せられていた。
これに目を付けたものがある。四頭豹ドルベン・トルゲである。彼は早くから兄弟に接触して甘言で誘い、これを抱き込むことに成功していた。またほかの庶子にも巧みに手を伸ばし、誰一人気づかぬうちにその心を掌握していた。
そもそも誘われた庶子たち自身が籠絡されたことに気づいてなかった。彼らの主観では、己のために四頭豹を利用していると思い込んでいた。もちろん四頭豹がそう思うように仕向けたのである。
ともかく水面下で確実にことは進行していた。察しの早いアステルノですらそこまでは想到していない。梁公主と四頭豹の狙いが明白になるのはまだまだ先のこと。謀略の胎動を予感させつつ、草原一の大族は春を迎えることになる。