第八 五回 ④
ソラ冷泉に伏して碧水将に遇い
オンヌクド険路を越えて蓋天才に見ゆ
ソラはおおいに驚く。はっとして顔を上げると、目瞬きも忘れてこれを見返す。
「どうかされましたか?」
問われて我に返ると、あわてて非礼を詫びる。あたふたと言うには、
「マシゲルとは、あのマシゲルですか。いや、マシゲル部は先年ムジカらが滅ぼしたとばかり……。えっ? ということは貴公が……」
「そうです。私がマシゲル部ハーン、獅子マルナテク・ギィです」
平伏してさらに非礼を詫びると、
「ジョシ氏族長カンシジ・ソラです。天地に行くところなき身をお救いいただき、ありがとうございます。ハーンの慈悲がなければ今ごろ我が首は胴を離れ、名は地に堕ちていたでしょう。淫婦奸臣の奸謀に命を失えばいかにも悔いが残り、幽鬼となって草原を彷徨せねばならぬところでした。このとおり無智蒙昧な愚人ですが、仔馬番、乳搾りなら十分に勤まりましょう。アイルの片隅にでも置いていただきたく存じます」
ギィは立ち上がって、その身を助け起こすと、
「このような僻地まで赫彗星の名は轟いております。思わぬ災厄に遭われたと聞いて憂慮しておりました。無事お迎えできて人衆ともどもおおいに安堵しております。このケルテゲイ・ハルハを己のゲルとも思って寛いでください」
ソラは幾度も礼を述べる。ギィは酒食の用意を命じて、オンヌクドにも席を勧めた。そのとき奥座より現れたのはアンチャイ・ハトン。嫣然と微笑めば、その美しい容姿にソラは思わず息を呑む。
今や人衆は、その玉璧のごとく輝く双眸、花弁のごとく紅き両頬を称えて、「瓊朱雀」の名を奉って厚くこれを慕っている。
従えたる侍女もやはり両個の女丈夫。
一個はチャング氏のウチン。言は必ず正、行は則ち範、そもそも氏族を導いて誤りなからしめたことから、敬意を込めて付けられた渾名が「賢婦人」。
一個はもちろんキライ氏の赫大虫ハリン。アンチャイがマシゲルに嫁帰した当初より側に仕え、その宏量なる心性でこれを支えてきた大徳の主。
またソラを迎えた将も、座に連なって改めて名乗りを上げる。
聞けばこれぞ賢知の名高き神都のゴロ・セチェン。マシゲルに投じてより諸事に抜群の才略を示して為しえぬことはなかったので、人衆は驚嘆してやはり渾名を奉った。すなわち「蓋天才(上天を蓋う才気の意)」。
ギィの右背に侍する武官は弓射に長ずる上将、ジャルム氏のコルブ。常に先駆けて敵陣に突き入ることから、称して「迅矢鏃」。これも席を与えられる。
かくして主客揃ってお決まりの宴となる。もとよりテンゲリの定めた宿星、たちまちのうちに意気投合する。酒精の玄妙な効用もあってか、次第にソラは本来の心性を復して無遠慮に問うには、
「マシゲル部が存続していたとは今日まで知りませんでした。ヤクマンでは超世傑と神風将の遠征で四散したものと思われています。それがこうして健在であるばかりか、ハーンとムジカは盟友であるとか。いったいどういう経緯なのか、教えていただけませぬか」
獅子の主従は顔を見合わせて大笑い。ギィが言うには、
「たしかに我々はムジカと戦って敗れました。しかし今は堅き石のごとき盟約を結んでいます。訝しく思われるのも無理はありません」
ゴロが話を引き取って、
「これには複雑な事情があるのです。話せば長くなりましょう」
是非にと頼めば、それではとばかりに語り起こす。すなわち内乱に始まって、マシゲルとヤクマンの会戦、ギィとヒィ・チノの一騎射ち(注1)がそれを彩り、ついにカラバルの同士討ち(注2)へと至る。
やがてギィはケルテゲイ・ハルハに逃れ、留守陣はアステルノに接収されてアンチャイは虜囚(注3)となる。すべてはムジカの下に客であったチルゲイの建策によるところ。
今度は彼らがギィを訪ねたが、道中野盗と化したコルブが合流(注4)する。彼らとともにジョナン氏のアイルへ赴けば、ムジカ、アステルノと意気投合、ついに「チェウゲン・チラウンの盟(注5)」が成ったという次第。
その後、密かにタロトの故地にて部族を再建して数年、友誼は厚くなるばかり。激減した家畜も援助を得て殖えつつあるという。
まったく知らなかった北方の実情を聴いて、ソラは言葉も出ない。話中の俊傑の知略勇武に血は沸き立ち、羨望の情が募る。
さらに両部族に跨がって飛び回った客将、すなわちチルゲイ、ナユテ、ミヤーンとはいったいいかなるものどもかと興味を搔き立てられる。呆然としているとゴロが言った。
「赫将軍、貴殿も話してください。なぜ、かかる災難に遭われたのか」
勃然と憤怒の情が甦り、思わず杯を拿む手に力が入る。それを看たアンチャイが目でゴロを窘めたが、ソラは意を決して奸婦への恨みを吐露しはじめる。
こちらは梁公主が政事に介入する不条理に始まり、長吏バンフウの誅殺を経てソラが嫌疑をかけられた段に及ぶ。
ドルベン、ムカリが登場し、ダルシェと干戈を交えたあとで、追討の命が下されたことを知らされ、キレカに投じたところで姉テランの処刑を聞かされる。
ここで一旦語を切って、心を落ち着かせんとて杯を呷る。ギィらはあまりのことに何も言えない。
二、三杯飲んで再び口を開くと、近衛の探索をオラルのおかげで免れて、ついにムジカやアステルノの助けによって部族を脱し、ここに至ったことを語り終える。
好漢たちはおおいに唸って憤りの声を挙げる。特にコルブの怒りは凄まじく、卓を叩いて激昂する。ウチンも唇を震わせて眉を顰める。
ともに奸婦奸臣の非道を謗り、テンゲリにこれを亡ぼさんことを誓って杯を干せば、僅かながらソラの鬱憤も晴れる。そのまま話題は天下の奸人侫者に移って、上は神都の僭帝ヒスワから、下は巷間の小人まで排撃して已むことがない。
そのうちにふとギィが思いついて、ソラにあることを尋ねたのであるが、まさしく宿星の運行は知りがたく、テンゲリの意思は測りがたいもの。
新たな客人に古き僚友を索めて神道の是を証し、奇卦の象を明かさんと欲したわけだが、果たしてギィは何と言ったか。それは次回で。
(注1)【ギィとヒィ・チノの一騎射ち】第三 七回①参照。
(注2)【カラバルの同士討ち】第三 八回④参照。
(注3)【アンチャイは虜囚】第三 九回②参照。
(注4)【コルブが合流】第四 〇回①参照。
(注5)【チェウゲン・チラウンの盟】第四 一回②参照。ちなみにアステルノは結盟には参加していないが、ギィとヒィ・チノは翌日二人でこれを訪ねている。第四 一回③参照。