第八 五回 ③
ソラ冷泉に伏して碧水将に遇い
オンヌクド険路を越えて蓋天才に見ゆ
そうしてまもなくヤクマンの版図を越えようというころになって、オンヌクドが言った。
「もうすぐ安全圏です」
声をかけた途端に、はっと口を噤む。車中にあって様子の判らぬソラは不安に駆られて、
「どうした? 何かあったか」
「静かに! 哨戒兵です。向こうもこちらに気づいたようです」
ソラは息を呑むと、そっと剣を手許に引き寄せる。じっと待っていると、何やら話し合っている気配がする。低い声なので内容は聞き取れない。耳を寄せようと腰を浮かせたところで、卒かに帳が捲られる。
「あっ!」
不意を衝かれて身動きもできないでいると、
「剣を放せ。過怠のない奴だ。また殆うく殺されるところだったわ」
声に緊迫の色がないので不審に思ってよく視れば、何と碧水将軍オラル・タイハン。呆気にとられて声も出せずにいると、
「何という顔をしているのだ。見送りにきたというのに」
「……いや、すまぬ。驚いた」
オラルは笑って、
「ここしばらくこの辺は我々イレキ氏が輪番で哨戒している。だから超世傑らにこの機を逃さぬよう伝えたのだが。何も聞いてないのか」
ソラはあわただしく発つことになった理由を初めて悟ると、また感謝の念が込み上げてきて、
「一度ならず二度までも……。ジョシ氏が再興したら厚く礼をさせてもらうぞ。今はこうして頭を下げるばかりだ」
オラルは蒼い眸子に惜別の情を湛えて、
「辛苦するだろうが、自愛せよ。必ず陽光の下で再会しようぞ」
ソラは幾度も礼を言ったあとで続けて、
「君もあの奸婦には気をつけろ。諸賢にも伝えておいてくれ」
「まずは自身の安寧だ。私のことはいい。近くオルドを離れることになりそうだ」
ふとその顔に憂悶の色が浮かんだが、わけを訊けずにいると、
「さあ、疾く行け。あと十余里も進めば圏外だ」
そう言って帳を下ろすと、ほどなく車は進みはじめる。帳を薄く開けて見れば、オラルがじっと見送っている。みるみるうちにその姿は小さくなる。こうして彼らはついにヤクマンの版図をあとにした。やっと奸婦の手を逃れたことになる。
さらに旅は続いたが、すでに危機は脱していたので、何ごともなく日が過ぎた。いまだにソラはどこへ向かっているのか判らなかったが、あえて尋ねようともしなかった。そうして幾日目かの夜のこと、オンヌクドが言った。
「いよいよ明日、目指す冬営に着きます。そこでしばしお別れです」
「そうか。……ところでそろそろどこへ向かっているか教えてくれないか」
オンヌクドは虚を衝かれた様子。次いで破顔一笑して言うには、
「そういえばまだ教えていませんでした。隠すつもりはなかったのですが。まあ、ここまで来たからには着いたときのお楽しみにしておきましょう」
翌日、一行はさらに進んで険しい道に分け入った。車はがたがたと音を立てて揺れ、何だか気分が悪くなってくる。ソラが訴えれば、
「ここまで来れば安心です。あとは馬で参りましょう」
久しぶりにソラは彗孛に跨がって馬上の人となる。冷気をいっぱいに吸い込むと清々しい心地になる。
辺りを見廻せば、ついぞ見たことがない風景。地は盛り上がり、左右は切り立った崖になっている。道には大石が転がり、前方から強い風が吹き抜けてくる。一瞬浮き立った気分も、何となく沈み込まんとする。
「ここは、いったい……?」
「さあ、あちらです」
オンヌクドの先導でさらに進む。道を登っていくと改めてこの地の険阻に驚かされる。ここに籠もられたら、いかなる大軍も攻めがたかろうなどと感心していると、ふとオンヌクドが止まった。
あわてて手綱を引けば、前方に十数騎の人影を認める。野盗かと緊張すれば、オンヌクドが顧みて言った。
「赫将軍、迎えが参りましたぞ」
「何だって?」
聞き返す間にすでにオンヌクドは馬腹を蹴って駆けだす。これを追って人影に近づけば、中央にあるものは見るからに尋常のものではない。
「やあ、奔雷矩! 待ちかねたぞ」
その男が手を振って呼びかければ、嬉々として答えて、
「ご足労おかけしました。先日お話しした赫彗星をお連れしました」
馬上で拱手の礼を交わす。男は瞬時にソラの人となりを観察すると、満足そうに頷いて言った。
「赫彗星の名は遠く聞き及んでおります。今日は邂逅かなってこれに勝る喜びはありません。さあ、我らの冬営に案内しましょう」
ソラはやはり黙ってあとに続く。峯を越え、峠を過ぎ、さらに分け入ったところで突如視界が開ける。盆地にゲルが連なり、方々で家畜が草を食んでいる。
ソラが呆然としていると、
「あれが我らの冬営です。小なりといえども、ここなら誰も近づけません」
男が言うのを聞いて、思わず頷く。一行は道を下って中央の大ゲルに向かう。
「さあ、お入りください。我が主君がお待ちです」
勧められるままに彗孛を預けて戸張をくぐる。もちろんオンヌクドらもあとに続く。高き座に在るのは一見してそれと判る真の英傑。ソラは自然と跪拝する。それを制して澄んだ声音で言うには、
「マシゲルの冬営へようこそ。部族を挙げて歓迎します」