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草原演義  作者: 秋田大介
巻六
339/783

第八 五回 ③

ソラ冷泉に伏して碧水将に()

オンヌクド険路を越えて蓋天才に(まみ)

 そうしてまもなくヤクマンの版図(ネウリド)を越えようというころになって、オンヌクドが言った。


「もうすぐ安全圏です」


 (ダウン)をかけた途端に、はっと(アマン)(つぐ)む。車中にあって様子の判らぬソラは不安に駆られて、


「どうした? 何かあったか」


静か(ヌタ)に! 哨戒兵(カラウルスン)です。向こうもこちらに気づいたようです」


 ソラは息を呑むと、そっと(ウルドゥ)手許(てもと)に引き寄せる。じっと待っていると、何やら話し合っている気配がする。低い声なので内容は聞き取れない。(チフ)を寄せようと腰を浮かせたところで、(にわ)かに(とばり)(めく)られる。


「あっ!」


 不意を衝かれて身動きもできないでいると、


「剣を放せ。過怠のない奴だ。また(あや)うく殺されるところだったわ」


 声に緊迫の色がないので不審に思ってよく視れば、何と碧水将軍(フフ・オス)オラル・タイハン。呆気にとられて声も出せずにいると、


「何という(ヌル)をしているのだ。見送りにきたというのに」


「……いや(ブルウ)、すまぬ。驚いた」


 オラルは笑って、


「ここしばらくこの辺は我々イレキ氏が輪番で哨戒している。だから超世傑らにこの(チャク)を逃さぬよう伝えたのだが。何も聞いてないのか」


 ソラはあわただしく発つことになった理由を初めて悟ると、また感謝の念が込み上げてきて、


「一度ならず二度までも……。ジョシ氏が再興したら厚く(カリラ)をさせてもらうぞ。今はこうして(テリウ)を下げるばかりだ」


 オラルは蒼い眸子(ニドゥ)に惜別の情を(たた)えて、


「辛苦するだろうが、自愛せよ。必ず陽光の下で再会しようぞ」


 ソラは幾度も礼を言ったあとで続けて、


「君もあの奸婦には気をつけろ。諸賢にも伝えておいてくれ」


「まずは自身の安寧だ。私のことはいい。近くオルドを離れることになりそうだ」


 ふとその顔に憂悶の色が浮かんだが、わけを訊けずにいると、


「さあ、疾く行け。あと十余里も進めば圏外だ」


 そう言って(とばり)を下ろすと、ほどなく(テルゲン)は進みはじめる。帳を薄く開けて見れば、オラルがじっと見送っている。みるみるうちにその姿(カラア)は小さくなる。こうして彼らはついにヤクマンの版図をあとにした。やっと奸婦の(ガル)を逃れたことになる。




 さらに旅は続いたが、すでに危機(アヨール)は脱していたので、何ごともなく(ウドゥル)が過ぎた。いまだにソラはどこへ向かっているのか判らなかったが、あえて尋ねようともしなかった。そうして幾日目かの夜のこと、オンヌクドが言った。


「いよいよ明日、目指す冬営(オブルヂャー)に着きます。そこでしばしお別れです」


「そうか。……ところでそろそろどこへ向かっているか教えてくれないか」


 オンヌクドは虚を衝かれた様子。次いで破顔一笑して言うには、


「そういえばまだ教えていませんでした。隠すつもりはなかったのですが。まあ、ここまで来たからには着いたときのお楽しみにしておきましょう」


 翌日、一行はさらに進んで険しい道(ケルテゲイ・モル)に分け入った。車はがたがたと音を立てて揺れ、何だか気分が悪くなってくる。ソラが訴えれば、


「ここまで来れば安心です。あとは(アクタ)で参りましょう」


 久しぶりにソラは彗孛(すいはい)(また)がって馬上の人となる。冷気をいっぱいに吸い込むと清々しい心地になる。


 辺りを見廻せば、ついぞ見たことがない風景。(ガヂャル)は盛り上がり、左右は切り立った(ゴド)になっている。道には大石(グル)が転がり、前方から強い(サルヒ)が吹き抜けてくる。一瞬浮き立った気分も、何となく沈み込まんと(バクタ・アルダタラ)する。


「ここは、いったい……?」


「さあ、あちらです」


 オンヌクドの先導でさらに進む。道を登っていくと改めてこの地の険阻に驚かされる。ここに籠もられたら、いかなる大軍も攻めがたかろうなどと感心していると、ふとオンヌクドが止まった。


 あわてて手綱(デロア)を引けば、前方に十数騎の人影(セウデル)を認める。野盗(ヂェテ)かと緊張すれば、オンヌクドが顧みて言った。


「赫将軍、迎えが参りましたぞ」


「何だって?」


 聞き返す間にすでにオンヌクドは馬腹を蹴って駆けだす。これを追って人影に近づけば、中央(オルゴル)にあるものは見るからに尋常のもの(ドゥリ・イン・クウン)ではない。


「やあ、奔雷矩(ほんらいく)! 待ちかねたぞ」


 その男が手を振って呼びかければ、嬉々として答えて、


「ご足労おかけしました。先日お話しした赫彗星をお連れしました」


 馬上で拱手の礼を交わす。男は瞬時(トゥルバス)にソラの人となりを観察すると、満足そうに頷いて言った。


「赫彗星の名は遠く聞き及んでおります。今日は邂逅かなってこれに勝る喜び(ヂルガラン)はありません。さあ、我らの冬営に案内しましょう」


 ソラはやはり黙ってあとに続く。(ボルダク)を越え、(ダバア)を過ぎ、さらに分け入ったところで突如視界が開ける。盆地(トグム)にゲルが連なり、方々で家畜(アドオスン)(ウヴス)()んでいる。


 ソラが呆然としていると、


「あれが我らの冬営です。小なりといえども、ここなら誰も近づけません」


 男が言うのを聞いて、思わず頷く。一行は道を下って中央の大ゲルに向かう。


「さあ、お入りください。我が主君(エヂェン)がお待ちです」


 勧められるままに彗孛を預けて戸張(エウデン)をくぐる。もちろんオンヌクドらもあとに続く。高き座(オンドゥル)に在るのは一見してそれと判る真の英傑(クルゥド)。ソラは自然と跪拝する。それを制して澄んだ(トンガラグ)声音で言うには、


「マシゲルの冬営へようこそ。部族(ヤスタン)を挙げて歓迎します」

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