第八 五回 ②
ソラ冷泉に伏して碧水将に遇い
オンヌクド険路を越えて蓋天才に見ゆ
ソラはもたもたと岸に上がったが、震えが止まらず歯の根も合わない。
「もうしばらくここにいたほうがよい。私は何も見なかったことにする」
何とか感謝を述べようとしたとき、遠くから声がかかって、
「オラルっ! そっちはどうだ!」
顧みて叫ぶ。
「こちらにはいないようだ! ほかを当たれ!」
また向き直って、
「紅火将に咎が及ぶ前に去れ。超世傑や神風将も疑われている」
「すまない」
悄然として答えると、オラルは笑って、
「またどこかで見えよう。今日は幸運だったな」
そう言い残して、来た道を戻る。テンゲリの加護とはまさにこのこと、ソラは九死に一生を得た安堵からか、その場に倒れ臥す。
結局、近衛兵は何も得られずに帰った。去り際にオラルは、密かにキレカに囁いて言うには、
「赫彗星のことだが、外へ逃がすことを勧めておく」
キレカはあっと驚いたが、それを制してさらに声を落とすと、
「実は泉の中に奴を見つけたのだが、見ぬふりをした。次も私が見つけるとはかぎらない」
「そうだったのか……。承知した、早急に手を打とう」
「それがよい。ではまた」
近衛兵が去ったあとで急いで行ってみると、ソラが気を失って倒れている。あわてて運び込んだが、それから七日ばかり高熱を出して寝込んでしまった。
熱が下がると、オラルに救われたことを話して遠方に退去することを申し出る。キレカも無論同意して、
「では超世傑に諮ってみよう」
するとソラは逡巡して言った。
「オラルによると、ムジカやアステルノも疑われているとか。俺としてはあまりみなに累を及ぼしたくない」
それを聞いたキレカは吹きだすと、肩を叩いて言った。
「ははは。殊勝なことを言うではないか。全然らしくないぞ」
ひととおり笑い合ったあと二人であれこれ考えてみたが、二人とも部族の外に知己がない。果たしてやはり超世傑を恃むべきだということになった。
「となれば早いほうがいい。すぐに発とう」
キレカはソラの健康を案じて送っていこうとしたが、丁重に断って早速準備を始める。そこへ来客の報せ。ソラはあわてて身を隠そうとする。
「赫彗星、隠れんでもよいではないか」
驚いて見れば何と神風将軍。再会を喜んで言うには、
「オラルから聞いたぞ。殆ういところだったな」
「神風兄の予言どおりになった。先日は碧水将のおかげで助かった」
「さすがに消沈しているな。実はムジカと諮ってお前を連れ出しに来た。オラルも言うように、もはやヤクマンにいては危険だ」
ソラは不安そうに言った。
「俺には行くところがない。ちょうど今、それを紅火将と話していたところだ」
「心配するな。黙ってついてこい」
自信満々で言うので、おとなしく従う。即日、二人の好漢は出立した。
「では神風将軍、ソラを託したぞ」
キレカが言えば、呵々大笑して、
「まったくこいつのおかげでみなが忙しい。とりあえず貸しておくさ」
ソラは申し訳なさそうに俯く。その背をどんと叩くと、
「さあ、気合い入れて行こうぜ!」
その後は飢えては喰らい、渇いては飲み、朝発ち、夜休むお決まりの行程。道中格別のこともなく目指すアイルに辿り着く。
報せを受けてすぐにマクベン、アルチンの二人がこれを迎える。大ゲルに着くとムジカらが歓声を挙げる。ソラが恥ずかしそうに礼を述べると、
「何せ無事で良かったじゃない。ここまで来れば安心だよ」
タゴサが快活に言ってこれを座らせる。アステルノもどっかと腰を下ろすと、
「やあ、身体が冷えきっているぞ。とりあえず酒だ、酒だ」
「相変わらずだな」
ムジカは笑うと側使いに命じて酒食を並べさせる。名立たる好漢が顔を揃えて、宴はいつもより盛り上がったが、次第にソラの口数が減ってくる。
「何やってんの、しっかり食べないと。これから旅立つんだよ!」
タゴサがやや赤くなった顔で言えば、
「……そのことなんだが」
みな耳を傾けて続きを待つ。うなだれて言うには、
「俺はまったく阿呆で、みなを煩わせてばかりだ。今もただただ神風兄に連れられて押しかけてはみたものの、これからどうすればよいやらさっぱり判らぬ。超世傑よ、いったいこの草原に俺を容れる地があるのか?」
その言葉で誰もが居住まいを正す。ムジカが答えて言った。
「安堵するがいい。君の行く先はすでに用意してある」
「どこだ、それは?」
目を輝かせて尋ねたが答えがない。重ねて問うも笑うばかり。横からアステルノが割って入って言った。
「細かいことを気にするな。我々に委せてお前は飲め、飲め!」
結局判然とせぬままひと晩飲み明かしたが、くどくどしい話は抜きにして翌朝、ソラはオンヌクドに案内されて発つことになった。好漢たちはさすがに神妙な顔でこれを見送る。ムジカが言った。
「本来なら自ら送りたいのだが、私もアステルノもあまり長く留守にできぬ」
「わかっている。ありがとう」
礼を言うと車に乗り込んで帳を固く閉ざす。彗孛は従者が牽いていく。
「では赫彗星、参りましょう」
オンヌクドが車中のソラに声をかけて、一行はその場をあとにした。道中は遮るものとてない果てなき大地を、延々と駆け続ける。夜は営を張って休み、明ければ出立する。