第八 三回 ②
ダルシェ赤流星を撃ちて喪神を嗤い
ハレルヤ赫彗星と語らい飛礫を誘う
ムカリの潰走はそのまま左翼全体に波及して、やがて全軍を混乱に陥れた。脆くなった箇所に錐のごとくダルシェの強兵が突き入る。
「止まれ! 戦列を立て直せ!」
ソラは声を限りに叫んで、旗幟で指示を送ったが見る余裕もあらばこそ、ジョシ氏の誇る赤流星はすっかり恐慌に陥った。ソラはムカリのふがいなさに歯軋りしたが、事態はすでに収拾しがたく、開戦から半刻を待たずして撤退を命じた。
ダルシェの猛追はかつて経験のないほど厳しく、ジョシ軍は散々に痛めつけられた。完全な敗北である。当のムカリは誰よりも早く戦場から離脱していた。
ソラは恥辱と憤怒に身を震わせながら最後まで残り、自ら殿軍を務めた。直属の百騎と退路を確保したソラは、追撃してくる敵騎と相対した。
「礫を喰らうがいい」
呟いて、腰に下げた嚢の中をまさぐる。敵騎が続々と詰めかける。十分に近づいたのを見て右手をさっと一閃すれば、狙いを外すことなく先頭の額に命中する。敵騎はもんどりうって落馬し、味方からは大歓声。
無論、そんなことで怯む魔軍ではない。倒れ伏した兵を飛び越えて次なる猛者が迫る。またソラの手が動けば、これもあっと悲鳴を挙げて倒れる。そうして次々と敵騎を打ち倒したところ、漸く魔軍にも動揺が広がる。
ソラはずいと押しだして敵を睥睨すると、
「大将に伝えろ。次はお前の額に礫を撃ちこんでやるとな!」
そしておもむろに馬を返して退却に移る。ダルシェは警戒して誰も追おうとしなかったので、悠々と引き揚げることができた。
ハレルヤは戦局が定まると、追撃は人に委せて馬を休めていた。報告によってソラの礫の威力を聞き知ると、
「ほう、それは異能ではないか。よし、必ず自ら確かめてやろう」
とだけ言って、敵将を逃したことを責めなかった。黒鉄牛を顧みると、
「礫を投げる将というのを聞いたことがあるか?」
ぶるぶると首を振ったので、笑いながら、
「そうだろう。俺もない。次に会うのが楽しみだ」
ハレルヤは矛を収めて退却を命じた。かつてはダルシェの追撃と云えば、どこまでも追って陣を整える暇も与えないのが常であったが、彼が大将になってからはしばしば手を弛めることがあった。そこで誰も異を唱えることなく、歓声を挙げて帰陣する。
黒鉄牛は感嘆の眼差しで仰ぎ見ると言った。
「まさしく将軍が言ったとおりの戦でしたな」
上機嫌で答えて言うには、
「少し兵法を齧ったものなら誰でも判ることだ。それにしても敵の主将は凡将というわけでもないのに、なぜあんな雑軍を加えているのか理解に苦しむ」
「いや、将軍の足許にも及ばぬ凡将ゆえ、気づかなかったでしょう」
ハレルヤは振り返ると、険しい表情で言った。
「追従を言うな。赤流星の統制ぶり、礫の異能を見ても、決して凡将ではない」
黒鉄牛は思わず首を竦める。それを見てまた笑顔に戻ると、
「今日の敗因も悟っているだろう。次が楽しみだ。まあ、何度来ようと同じことだがな」
ダルシェ軍は意気揚々と凱旋したが、この話はここまでにする。
ジョシ軍はおよそ四十里も敗走してやっと止まった。次第に敗残の兵が集まる。あとから追いついたソラが点検したところ、一割近くが戻っていなかった。
舌打ちして事後策を講じていると、臆面もなくムカリが姿を見せた。ソラは沸々と怒りが沸きあがるのを感じたが、努めて冷静に言うには、
「亜喪神よ、次は後方で待機していてもらおうか」
すると薄ら笑いを浮かべて、
「それはひどい。こんな寒い中、何のためにやってきたと思っている」
この返答にソラは感情を爆発させた。
「ならばなぜ真っ先に退いた! お前のせいで戦にならなかったのだぞ!」
ムカリも顔をみるみる赤黒く染めて言い返す。
「何だと! 自軍の脆弱を顧みず、敗北をすべて俺のせいにするのか!」
たちまち緊張が走ったが、そこに軍監の小スイシが現れて、
「待たれよ。勝敗は兵家の常、言い争っても始まらぬ。ハーンの信任に背かぬよう考慮するがいい」
ソラは心中穏やかではなかったが、争い合う害を考えて己を抑えると、地に唾を吐いて立ち去った。
夕刻、ソラは軍議を開いた。もちろんムカリと小スイシの姿も見える。
「今日は不覚をとったが、明日は俺が自ら先陣に立って報復しよう」
諸将は魔軍の豪勇を想起しておおいに不安に駆られていたが、それを察して言うには、
「心配するな。俺の礫をもってすれば恐れるに足らぬ。事実、奴らが追撃を諦めたのはそのためだ。諸将は安心して俺に続け」
漸くみなの顔に安堵の色が浮かぶ。ソラはムカリを顧みると、不快を押し殺しながら言った。
「亜喪神はやはり後方にいてもらおう。軍監殿の護衛を命ずる」
誰もが良策だと思ったが、何とムカリは色を成して、
「先にも言ったが、それでは何のために来たかわからぬ」
ソラはその鋭い目で睨みつけると、
「はっきり言おう。初めはお前の武勇を恃みにしていたが、今日の戦を見て判った。お前は統制を乱すばかりで使いものにならぬ。黙って待機していろ」
「何だと!?」
今にも攫みかからんばかりの勢いで一歩踏み出す。みな途端に青ざめる。