第 九 回 ①
コヤンサン神都に往きて津に二商と争い
ハツチ大道を巡りて楼に一将を誘う
さて、首尾よくサルカキタンに勝利を収めたものの、インジャは自死して果てたジュマキンのことを思って鬱々としていた。そうするうちに思い出したことがあって、セイネンを呼んだ。
「何か御用ですか」
「ジュマキンが擒えられてくる直前に話していたことだが……」
一瞬何のことかわからない様子だったが、すぐに思い出して、
「ははあ、覚えております」
「君の言った同門の賢者のことをもう少し詳しく聞きたい」
「イェリ・サノウのことですね」
「それがその方の名か」
「はい。サノウの出自は、草原ではなく長城の南にあります」
「中華の民か」
インジャは僅かに眉を顰める。
「はい。イェリはその姓です」
ここでイェリ家について知ってもらうのも決して無益ではないだろうから、しばし回り道をすることにする。
イェリは、中華では「耶律」と表記される。そもそも中華に一字姓は多く、二字姓は少ないもの。現在の皇帝も「梁」を姓とする一族である。
二字姓の由来にはいろいろあるが、当の「耶律」について云えば源流を辿れば化外の民、すなわち異民族の姓であった。耶律氏は長城北方の遊牧民で、その点ではジョルチ部やタロト部と同じである。
それがなぜ草原を離れて中華に居るのかと云えば、史書を紐解かねばならない。今を去ること約三百年前のことである。耶律家に一世の英雄が現れた。名をアルバクという。
アルバクは、ズイエとガムール両大河に挟まれた地で力を蓄えるや、分裂していた諸氏を瞬く間に糾合し、一大帝国を築くことに成功した。国名を中華風に「大興」と名付けると、初代皇帝の位に就く。すなわち大興の太祖である。
当時、中華は李氏の陳朝が治めていたが、太祖アルバクが即位した翌年に呉魁・林桂冲の乱(注1)が起こり、国勢は衰運に向かっていた。
太祖はその後の群雄割拠の形勢に介入して長城の南に二十四州を得ると、十万の人衆を率いて遷都を敢行した。すなわち草原の民として初めて長城の南に拠点を遷したのである。遼州の興京がそれである。
太祖は中華に根を下ろそうと考え、積極的に部族の中華化を図った。その端緒として、遷都した翌年に姓名を中華風に改めるよう命じた。そのとき太祖親ら選んだ姓こそ「耶律」にほかならない。
その後、大興は二代太宗、三代武宗を経て、中華の北半を支配するに至る。だが耶律氏はじめ大興の貴族たちの中華化が進むにつれて、草原のことが疎かになってしまった。そのために元来の剛強さを失って、その兵は弱体化していった。
そして太祖から数えて九代目の愍宗のとき、ついに新興の張朝に滅ぼされてしまう。愍宗の従弟である耶律建拓は、草原に拠って大興を再建しようとしたが(北興の忠孝帝)、すでにジュレン部の建てた遊牧帝国があったため、夢は潰えた。
こうして大興の遺民の多くは長城の南に取り残され、張の世では迫害されながらも中華の民として生きるほかなかった。太祖アルバクの遷都より九代、草原はすでに彼らの故郷ではなくなっていたのである。
しかし時を経るにつれ、彼らの中からも政権の中枢に相たるものが現れた。英宗に仕えた耶律宜建、中宗の代の拓羅穣且、神宗・僖宗の寵臣である耶律馬漢など、いずれも大興の貴族の後裔である。
張から梁に移ると、彼らの地位はさらに向上した。なぜなら梁の太祖梁世貞を、興京にいた大興民族が援けて大きな功績を挙げたからである。特に耶律懿徳は「建国の十六功臣」に数えられ、興京を中心とした八州の都督に任命された。
かくして耶律氏は、今や中華の名門として各地に散らばっていたのである。
閑話休題。インジャとセイネンの話。
「中華のものがなぜ神都にあるのだ」
「そこでございます。サノウとは何とも変人でして……」
「というのは?」
苦笑しつつ、
「お会いになればすぐに解ります。口で言うのは難しい」
「ははは、神都に行けということか。どうするかな」
「それも難しいでしょうな。さて」
そのとき、
「今の話、聞きましたぞ!」
外から大きな声がして、一人の偉丈夫がぬっと顔を出した。
(注1)【呉魁・林桂冲の乱】870年に起こった大規模な農民叛乱。陳朝滅亡の遠因となった。