第七 六回 ②
サチ渾沌郎と倶に勝形を解き
スク麒麟児と与に剛将と争う
ササカは首を傾げて、よくそれらの言葉を吟味しているようであったが、やがて言った。
「帳幕の謀としてはそのとおりだけど、現実に三倍の敵を前にしたらそう冷静でいられるかしら? 敵が包囲を画したときには心臓が止まる思いだったわ」
と、そこでヨツチが口を挟んで、
「そうだ、花貌豹。俺にはいまだにわけがわからないのだが、君の出した命令、あれはいったい何だ?」
問われたサチは何のことだと言わんばかりに首を傾げる。クミフがはっと顔を上げると、
「そう、私もそれを聞きたかった」
「何をしたんだ?」
スク・ベクが興味津々の体で言えば、ササカが答えて、
「兵法では『十倍すれば則ち囲み、五倍すれば則ち攻む』とあるでしょう。なのにサチは敵が包囲にかかった途端に『寡をもって衆を囲め』と命じたのよ。どういうことか教えてほしいわ」
サチは、ああそれか、と小声で呟く。さすがのボッチギンも唖然として、
「たしかに常軌を逸している。寡兵をもって大敵と当たるには、兵を集中して用いるものと決まっているのではないか。君はなぜそんな奇策を思いついたのだ」
応じてふっと微笑むと、やむなく口を開く。
「勘違いするな。たしかに定跡とは言いがたいが奇策と言うほどのことではない」
これを聞いて場は騒然となる。かまわず淡々とした口調で、
「蒼鷹娘の言うとおり、兵法では『十倍すれば則ち囲み、五倍すれば則ち攻む』とある。だがこれは字義どおりに解釈する類のものではない。その真意は、兵力に応じた戦をせよというだけのこと。兵法にはもっと重視すべき句がある。それは『兵を形するの極は無形に至る』。つまり勝ちを制するのに定形はなく、敵情に応じて無窮の変化を遂げることこそが用兵の鉄則」
「何となくは解るが、それと『寡をもって衆を囲む』ことと何の関係がある」
カトメイが尋ねれば、
「将となり戦場に赴けば、必ず果たすべき責務がある。私のそれは『半日戦線を維持すること』だった。敵を破る必要はなく、そこを突破されなければ意図は達成される。もとより寡少な兵力をもって勝利を望むなど考えるべくもなかったが」
一度言葉を切って、何と続けたものか考えていたが、
「あのとき敵は策戦を更えて我々を包囲にかかった。背後に回られたら瞬く間に全滅する。私の責務はときを稼ぐことだから、それだけは阻止せねばならない。離脱して退くことも戦線維持の命に背くことになるから採れない。となれば道はひとつ。包囲を許さないこと、そのためにはこちらも翼を広げて逆に包囲するかのごとく兵を運用するほかない。とにかく一隊でも背後に回られたら利を失う。そういう状況下では縦に厚く陣を張るよりも、たとえ薄くとも長く形したほうが理に適う」
みな呆然と聞き入っている。サチは続けて、
「兵衆の労は倍加するだろうが、兵法にも謂うではないか。『これを亡地に投じて然るのちに存し、これを死地に陥れて然るのちに生く』と。今回の策はその応用に過ぎない」
「…………」
「しかも敵は、砂塵に逆らう長躯の行軍で疲弊している上に、緒戦に敗れて意気阻喪している。対する我らは劣るのは数だけで、士気、練度、機動力、統制などほかの面では遥かに勝っている。さらに大軍というものは一旦動きはじめると俄かには踏み止まれないものだ。ゆえに我が軍が薄く伸びているのを察しても、すぐには攻勢に転じることはできない。そう考えれば、かの策も奇とするには当たるまい」
「し、しかし君は敵中に孤立して死にかけたではないか!」
ヨツチが目を円くして言うと、サチはふふと笑って、
「あれか。あれは欲が出た」
「欲?」
さも楽しげに笑いつつ言うには、
「あまりに思うとおりに運んだから、ひょっとしてミクケルを討てるのではないかと、つまらぬことを考えた」
「どういうこと?」
ササカが問う。笑いを収めて言うには、
「寡をもって衆を討つには、彼は分散させて己は集中することだ。敵は包囲のために次々と兵を動かした。私はともに動くように見せつつ手許に精鋭三百を残していた。これこそ『我は専にして敵は分かれる』形勢だろう。我らは戦場全体では寡兵だったが、中央はあの瞬間だけ我が軍が優勢となっていたのだ。そこで欲が出た」
「なるほど……」
好漢たちはただ瞠目する。サチは再び笑顔で、
「あまりにも兵法に謂うところの『敵の意を順詳し、并一にして敵に向かい、千里にして将を殺す。ゆえに始めは処女のごとく、のちには脱兎のごとし』という言葉どおりの展開だったからな。ははは、殆うくつまらぬ教訓を得るために死ぬところだった」
その驚異的な胆力と卓越した用兵の才に感嘆しないものはなかった。カントゥカも称賛を惜しまず、改めてこれを賞した。ササカも漸く心から戦勝を祝う気分になったのは言うまでもない。