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草原演義  作者: 秋田大介
巻五
299/785

第七 五回 ③

サチ寡兵を用いて善く大敵に伍し

シン軽騎を飛ばして其の不意に(おもむ)

 ミクケルの周囲にあったのは近臣(コトチン)を含めた百騎(ヂャウン)ほどである。しかし狼狽(うろた)えたあまり、硬直して(ブルガ)接近(カルク)をただ眺めている。ミクケルはたまらず叫んで、


「退け! 退いて立て直す!」


 応じて急いで退却の銅鑼を鳴らしてしまう。フワヨウはこれを(チフ)にして思わず舌打ちする。


 クルドもさすがにまずいと思ったのか、命令(カラ)を撤回して攻撃の令を発するよう怒鳴った。これもすぐに旌旗(トグ)と金鼓によって形になったが、もちろん全軍の混乱を助長するばかり。いかに大軍といえども、こうも命令が二転三転しては単なる烏合(エレムデク)の衆(・ヂェムデク)である。


 サチはいよいよミクケルの姿(カラア)を視界に(とら)えた。その間、たったの百歩。初めてその表情が動く。(フムスグ)が吊り上がり、(ニドゥ)は見開かれ、口腔(アマン)からは雄叫びが(ほとばし)る。


「もらった!」


 が、そのときである。横合いから一手の軍勢が飛び込んでその行く手を(はば)んだ。その数、約五百騎。


「な、何っ!」


 (トグ)はウラカン氏のもの。主将ツォトンはミクケルの逆鱗に触れて檻車にあったが、もちろんサチは知る(よし)もない。


「ここまで来たんだ。止められてたまるか!」


 気合い一声、(ヂダ)を掲げて突き入る。(フル)を止めることは敵中に孤立すること、すなわち死に直結する。三百騎は死にもの狂いで突撃した。一方のウラカン勢も()かれたように必死の形相で応戦する。


 サチの進撃は(はば)まれた。


「よし、よくやったぞ!」


 フワヨウは馬上で会心の笑みを浮かべると、さらに速度を上げてサチ軍の後背に迫る。


「サチ様、後方より千騎(ミンガン)を超える軍勢が!」


「前だ! 前に進むことだけ考えろ!」


 いかなるときにも冷静を保っていた花貌豹もさすがに焦燥を覚える。群がる敵を突き伏せるその目に、ミクケルの大将旗が後退していくのが見えた。


「ちぃっ! ここまでか……」


 サチは勝利の(セウル)(つか)(そこ)ねたことを悟ると、はっきりと死を意識した。そうなるとかえって表情はもとのごとく落ち着く。内心思うに、


「私の責務(アルバ)は、半日ここで堪えること。それは十分に果たした。もうひと暴れして掻き回しているうちに、渾沌郎の策が行われるであろう。惜しむらくはそれを自ら確かめられぬことだけだ」


 すでに全身に返り血を浴びて、さながら悪鬼(チュトグル)のごとく変貌していたが、なおも敵兵を葬り続ける。その薄紅色の(ハツァル)も、(ツォサン)と汗で汚れて土色に染まっている。


 麾下の兵は一騎、また一騎と数を減じていたが屈するものは一人とてなく、みなサチに殉ずる意思(オロ)を固めていた。


 ついに追いついたフワヨウが襲いかかる。もとより支えるべくもなく一挙に討ちとられていく。


 もはや周囲に数十騎を残すばかりとなった。(デム)はその形を失い、個々に敵前に(さら)される。(ようや)くミクケル側も己を取り戻して、これを撃破にかかる。


 両翼で健闘していたササカ、ヨツチも次第に防戦に回らざるをえなくなり、ほかを援ける余裕などあるはずもない。


「は、はは、驚かせおって! 殺せ、殺せ!」


 ミクケルは青ざめた頬を引き()らせながら、狂ったように叫び散らした。


 サチはまだ馬上にあって驚異的な猛勇(カタンギン)を発揮していた。すでに思考は失われ、朦朧としながら何かに衝き動かされるように得物を振るうのみであった。


 そこにフワヨウが怒号とともに打ちかかる。サチはこれと十合、二十合と打ち合いながら、ただ死の一字を思い描いていた。


 と、突然、その目に信じられないものが映って、サチははっと我に返った。


「あれは……!?」


 敵軍の右背彼方に、疾駆(ツォギオ)する軍影を認めたのである。


「まさか、援軍?」


 ふっと笑うと、それを打ち消す。この()に及んでそんな幻を見るとは何と弱気な、と己を(あざけ)ったのである。


 が、対するフワヨウも同じ方角を見て顔色を変える。


「麒麟児……」


 その呟きを耳にして、サチはもう一度彼方を見遣(みや)った。先ほど視界の端に微かに映った軍影が、今や実を成して迫りつつあった。旗はたしかにネサク氏のそれ、思わず歓呼の叫びを挙げる。


 渾沌郎君の送った機動部隊がついに戦場に至ったのである。先頭には当然、麒麟児シンの雄姿があった。


「花貌豹、よくやったぞ! あとはこの麒麟児様が決めてやるぜ!」


 そう叫ぶや、迷わず突撃の命を下す。応じて三千騎の精鋭が喊声とともに敵陣に突き入った。思いも寄らぬ方向から敵襲を受けて、途端にミクケル軍は浮足立つ。


「い、いつの間に後方へ!?」


 ミクケルは驚愕して左右を顧みる。誰もすぐには(ダウン)も出せない。その間にも陣形(バイダル)は散々に破られて四分五裂の様相を呈する。


 サチ軍との激闘で疲労はもはや覆いがたく、充実した新たな敵に当たるべくもない。しかも相手はカントゥカ軍随一の精兵、ネサク軍である。


 ササカ、ヨツチ、クミフも最後の気力を振り絞り、一斉に反撃に転じる。サチも混乱に(まぎ)れて危地を脱した。

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