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草原演義  作者: 秋田大介
巻五
262/785

第六 六回 ②

ボッチギン詭計を用いて巧みに雄族を(あざむ)

アサン形名を説きて因りて猛将を擁す

 もう一人の勅使は腰が抜けて、ただ(アマン)をもぐもぐさせるばかり。異臭(コンシュウ)漂うと思えば、こともあろうに失禁してしまっていた。居並ぶ諸将もわけがわからず呆然としている。カントゥカは委細かまわず凄まじい形相で言った。


「お前は帰ってミクケルに言え! (たの)みのウラカン氏もお前を見限ってヒラトに従ったとな」


 フフブルが吃驚して(ダウン)を挙げようとしたが、背後から(ささや)く声がして何と言ったかといえば、


「迂闊なことを言ってみろ。心臓(ヂュルケン)を貫くぞ」


 はっとして半ば振り返れば、ボッチギンが睨みつけている。その(ガル)にはひと振りの懐刀。フフブルは真っ青になって冷や汗を流す。気がつけば諸将の背後にもすでにスンワの兵が回っている。もとより有象(エレムデク)無象(・ヂェムデク)の集まり、誰が動けようか。


 カントゥカはずいと一歩を踏み出すと、へたり込んでいる勅使に向かって、


「これも積悪の報いだ」


 そう言って突如その(ヌル)を蹴り上げる。(うめ)いて倒れた勅使の袍衣(デール)()ぐと、その片耳を()いで追い出す。その間、ウラカンの諸将は呆然と目瞬き(ヒルメス)忘れて(ウマルタヂュ)傍観するばかり。


 かくして勅使はほうほうの(てい)で退散した。例によって(モリ)は与えられず、徒歩である。これは先に述べたとおり草原(ケエル)の民にとっては最大の侮辱。


 カントゥカは(カブラン)のごとき眼光で周囲を睥睨すると言った。


「見てのとおり俺もボッチギンも、ヒラトと(オロ)を同じくするものだ。ミクケルの勅使を殺した今、お前らも叛せざるをえなくなったな」


 フフブルが(オロウル)を震わせつつ(ようや)く言うには、


「な、何を言うか。大カンに逆らってただですむと思っているのか」


 すると背後のボッチギンが低い声で、


言葉(ウゲ)には気をつけたほうがよい。お前の(アミン)は我が掌中にある」


 懐刀を押しつければ、息を呑んで黙り込む。そうしておいてカントゥカは俄かに表情を(やわ)らげると、


「ミクケルの悪政はお前らも知るところではないか。カンは人衆(ウルス)太陽(ナラン)でなければならぬ。それが暗ければ除くほかあるまい。イシのカトメイも我らの同志(イル)だぞ。それなのにつまらぬ義理を尽くすことはなかろう」


 族長(ノヤン)長子(クウ)の名を聞いて、諸将は信じられぬ思いで目を(みは)る。そこでボッチギンが口を開いて、


「たしかにカトメイも我らとともに起つことになっている。いずれイシから、ヒラトに助力(トゥサ)するよう密使が来るはずだ」


 もちろんまだそうと決まったわけではないがあえてそう言えば、フフブルはじめ諸将は互いに顔を見合わせて困り果てた様子。それを見たカントゥカが迫って言うには、


「しかし事態は一刻を争う。カトメイの使者を待つ余裕はない。今、決断しろ」


 さらにボッチギンが言う。


「我らは不義を(ただ)すために起ったのだ。もしミクケルに従わぬのならもとより同族、どうしてこれを粗略に扱おう。軍馬(アクタ)糧食(イヂェ)を差し出すだけでよい。あとはカトメイの指示を待つだけだ」


 カントゥカは戦斧を手にフフブルに近づくと、


「無論、あくまで不義を貫くなら、今ここで禍根を断つ」


 ボッチギンが意地悪く笑って、


「ふふふ、この男が言うのは戯言ではないぞ。いずれにせよミクケルにはお前らも反逆したと伝わる。今さら忠義(シドゥルグ)を叫んでも、あの猜疑心の強いミクケルが信用するかな? あとには退けぬと思ったほうがよい」


 そしてカントゥカが言った。


「お前らはすでに屋に上がったのだ。下りる(はしご)はもうないぞ」


 これぞすなわち「上屋抽梯(じょうおくちゅうてい)の計」。結局、フフブルらはミクケルも恐ろしいが、何より眼前のカントゥカに恐れを成して、糧食などの供出を承諾せざるをえなかった。


 カントゥカはおおいに喜ぶと、居住まいを正して礼を言った。ボッチギンらも刀を収めて非礼(ヨスグイ)を詫びる。こうしてスンワ軍は大量の替馬(コトル)と糧食を得たので、ヒラトに使者を送ってその場に駐留した。というのもしばらくの間、ウラカンを監視するためである。




 夕刻(ヂルダ)、ボッチギンがカントゥカのもとへ来て言った。


「奇策というのは、ときが経つと効が薄くなるものだ」


「また何か思いついたな。今度は何だ?」


「少し兵を貸してくれ。ミクケルと遊んでくる」


 首を(かし)げながらも承諾したが、その耳に(ささや)いて、


「夜の明ける前に、軍をここから十里ほど遠ざけてくれ。手に入れた物資とともに。ああ、フフブルらに隠す必要はない」


 これもまた何も聞かずに承知する。完全に陽が没すると、ボッチギンは二千騎を率いて出陣した。カントゥカはそれを見送ると残りの兵を連れてウラカン氏のアイルから離れて野営した。


 翌朝、ボッチギンが意気揚々と凱旋してきた。心配して待っていたカントゥカがこれを迎えると言うには、


「これでウラカンはますますミクケルから離れざるをえなくなった」


「何をしたんだ?」


「まあまあ。とりあえずともにフフブルの顔を見に行こうではないか」

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