第六 四回 ②
ヒラト暴君に正道を説いて恩赦を請い
ヘンケ兵禍に令名を犠として後生に託す
ヒラトは平伏して語りはじめた。
「そもそも人君の喜びとは、朝廷に人材満ち、民戸に家財溢れることを云うのです。厩舎に駿馬、後宮に美女あることは喜びの末、これをもって憂いがないなどとは明君の言葉とは申せません」
心持ち顔を上げると、続けて、
「ゆえに明君は常に憂え、常に畏れるもの。賢を尚び、師を索め、身を謹んで初めて天下は治まり、天下が治まれば富貴は自ずから至るものです。すなわち富貴を得んと欲すれば、臣に人を得ることが先決。この順を違えれば、君は必ず富貴をもって已み、民は必ず貧苦をもって叛します。大カンのために計るに、忠良賢材を用いて奸侫邪臣を避けるは富強の道でございます」
ミクケルは欠伸を噛み殺している様子だったが、四姦の顔色はみるみる変わる。ヒラトは間髪入れずに続けて、
「徳望あるものを用いればカンが徳望を得、名声あるものを挙げればカンが名声を得るのが道理です。逆に、人衆に仇なすものを近づければカンが仇となり、国士に怨まれるものを侍らせればカンが怨を集めます。名望を捨てて、仇怨を得るは得策とは申せません」
ミクケルは徐々に苛立ってきて言った。
「それでヒラトよ。何を言いたいのだ。本題に入れ」
恐縮の体を装って、ますます頭を下げて言うには、
「臣が駄弁を弄しましたのは、ほかでもない大カンのためを慮って為したことです。それをまず知っていただきたく、あえてつまらぬことを申し上げたのです」
そして顔を上げると、ついにカンを正視して言った。
「さて、我が氏族のヘンケ・セチェンとアサン・セチェンが、檻車に囚われておりますが、いかなる罪があってのことでしょう?」
すると傍らからチンサンが怒声を挙げて、
「大カンの寵篤き妃に腐肉を献じたのだ! これは他意あってのことに相違ない。かかる無礼を許しては上下の序が紊れ、部族を傾けようぞ!」
ヒラトはこれを睨むと、静かに言った。
「ヘンケは天下の名医として声望もあり、幾度も大カンをはじめ親族の方々をお助けしてまいりました。その技は入神の域に達し、かのものの手に依らざれば治癒せぬ病もございます。今、小過を咎めてこれを失えば、大患生じたときに悔やむことになりましょう。かの神技は部族の宝、すなわち大カンの宝でございます。ヘンケを罰すれば、一には彼の医技を失い、二には衆庶の落胆を誘い、三には大カンの健康を害いましょう。腐肉の件は軽い叱責に留めるのが適当。これぞ小を捨てて大を取る、明君の裁断と云うものです」
殊更に「明君」の語に力を籠めると、今度は声を落として、
「そもそもヘンケがまことに大カンを害する心あらば、妃に腐肉を献ずるなどという迂遠なことをしなくとも、もとより大カンの侍医なれば、ほかに方法はいくらでもあったでしょう。彼に異心なき証左に、先日のお召しに応じて彼は即座に参上いたしました。これはもしや玉体に異状があったのではないかと憂えたゆえのこと。真に忠良の臣とはヘンケのことを申すのです。これを罰するなどもっての外、かかる忠臣も小過に死を賜うということになれば、大カンに忠誠を尽くさんとする臣はいなくなってしまいます。それこそ大カンのためにおおいに憂えるところです」
ミクケルは少しく考えている様子。チンサンもわなわなと唇を震わせるばかりで、すぐには反論もままならない。ヒラトは力を得て言った。
「一方、その息子アサン・セチェンはといえば、まったくの無実。かのものは父親の帰還が遅いのを慮って遠来したのみ、これぞ泰平の基たる孝の精神ではありませんか。家において孝なるは、すなわち君において忠である証であります。かくして上下の序は定まり、民は生業に勤しみ、大カンは王業を成すことがかなうのです。これを罰するは人衆に孝を禁ずるようなもの、上を軽んずることを教えるようなものです。もとよりアサンは人望厚く、人衆はみなこれを慕い、範としております。かかる人物こそ重用し、厚遇することが天下に安定をもたらすのです。大カンのために計るに、即刻両名に恩を賜い、罪を赦すことが良策かと存じます」
ミクケルはううむと唸る。ヒラトは一瞬、ことに及ばずとも収めることができるのではないかと期待を抱いた。実際、ミクケルはおおいに心を動かされた様子で、
「なるほど、お前の言い分はよく解った。では……」
安堵しかけたそのとき、傍らから声が飛んだ。
「お待ちください!」
はっとして見遣れば、四姦の一たるクルドが拱手して向き直っている。ミクケルは言いかけた言葉を吞み込んだ。クルドはおもむろに居住まいを正すと、
「大カンよ、佞臣の巧言に惑わされてはなりません。かのものこそ不忠を為し、部族を傾ける大患です」
「何を言うか! 君を惑わし、衆を苦しめているのは……」
ヒラトは思わず激昂して立ち上がる。
「控えよ! クルド、何故にそう言うのだ」
ミクケル自ら制して、先を促す。応じて血の気の薄い顔に笑みを浮かべて、
「こやつは大カンの信任厚いのをよいことに叛臣を庇い、大カンを欺かんとしております。こやつは元来、口舌の徒、己の罪を糊塗(注1)して大カンの意を迎えることに長けております。常々我ら忠良の臣はこやつが政事を壟断(注2)していることを苦々しく思っておりましたが、今日こそはもはや恕せませぬ」
挑みかかるようにヒラトを睨み据えながら、さらに言うには、
「人衆は朝廷にヒラトあるを知って大カンあるを知りませぬ。此奴は有能をもって自ら誇り、大カンの意向を軽んじて権勢を振るっております。天下の人望はかの佞臣に集まり、それでいて身を慎まぬは必ず異心あるに相違ありません。今また巧みに叛臣を弁護し、君恩を忘れた無礼な言辞の数々、心あるものは一様に眉を顰めております。世間では、これに簒奪の大望ありなどと噂しておりますぞ」
それを聞いてミクケルの顔はみるみる怒りに赤く染まる。
(注1)【糊塗】曖昧に取り繕うこと。一時しのぎにごまかすこと。
(注2)【壟断】利益、権利を独占すること。




