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草原演義  作者: 秋田大介
巻五
254/785

第六 四回 ②

ヒラト暴君に正道を説いて恩赦を請い

ヘンケ兵禍に令名を犠として後生に託す

 ヒラトは平伏して語りはじめた。


「そもそも人君(エヂェン)喜び(ヂルガラン)とは、朝廷に人材満ち、民戸に家財(エド)溢れることを云うのです。厩舎(アラチュグ)駿馬(クルゥグ)後宮(オルド)に美女あることは喜びの末、これをもって憂いがないなどとは明君の言葉(ウゲ)とは申せません」


 心持ち(ヌル)を上げると、続けて、


「ゆえに明君は常に憂え、常に畏れるもの。賢を(たっと)び、師を(もと)め、身を謹んで初めて天下は治まり、天下が治まれば富貴(バヤン)は自ずから至るものです。すなわち富貴を得んと欲すれば、臣に人を得ることが先決。この順を(たが)えれば、君は必ず富貴をもって()み、民は必ず貧苦をもって叛します。大カンのために計るに、忠良賢材を用いて奸侫邪臣を避けるは富強の(モル)でございます」


 ミクケルは欠伸(あくび)を噛み殺している様子だったが、四姦(ドルベン・クラガイ)の顔色はみるみる変わる。ヒラトは間髪入れずに続けて、


「徳望あるものを用いればカンが徳望を得、名声あるものを挙げればカンが名声を得るのが道理(ヨス)です。逆に、人衆(ウルス)(あだ)なすものを近づければカンが(オソル)となり、国士に怨まれるものを侍らせればカンが怨を集めます。名望を捨てて、仇怨を得るは得策とは申せません」


 ミクケルは徐々に苛立ってきて言った。


「それでヒラトよ。何を言いたいのだ。本題に入れ」


 恐縮の(てい)を装って、ますます(テリウ)を下げて言うには、


「臣が駄弁を弄しましたのは、ほかでもない大カンのためを(おもんぱか)って為したことです。それをまず知っていただきたく、あえてつまらぬことを申し上げたのです」


 そして顔を上げると、ついにカンを正視して言った。


「さて、我が氏族(オノル)のヘンケ・セチェンとアサン・セチェンが、檻車に(とら)われておりますが、いかなる罪があってのことでしょう?」


 すると傍ら(デルゲ)からチンサンが怒声を挙げて、


「大カンの寵篤き(エメ)に腐肉を献じたのだ! これは他意あってのことに相違ない。かかる無礼(ヨスグイ)を許しては上下の序が(みだ)れ、部族(ヤスタン)を傾けようぞ!」


 ヒラトはこれを睨むと、静か(ヌタ)に言った。


「ヘンケは天下の名医として声望もあり、幾度も大カンをはじめ親族(ウイエ・カヤ)の方々をお助けしてまいりました。その(エルデム)は入神の域に達し、かのものの(ガル)()らざれば治癒せぬ病もございます。今、小過を(とが)めてこれを失えば、大患生じたときに悔やむことになりましょう。かの神技は部族(ヤスタン)の宝、すなわち大カンの宝でございます。ヘンケを罰すれば、(ネグ)には彼の医技を失い、(ホイル)には衆庶(カラチュス)の落胆を誘い、(ゴルバン)には大カンの健康を(そこな)いましょう。腐肉の件は軽い叱責に留めるのが適当。これぞ小を捨てて大を取る、明君の裁断と云うものです」


 殊更(ことさら)に「明君」の語に(クチ)を籠めると、今度は(ダウン)を落として、


「そもそもヘンケがまことに大カンを害する(オロ)あらば、妃に腐肉を献ずるなどという迂遠なことをしなくとも、もとより大カンの侍医なれば、ほかに方法はいくらでもあったでしょう。彼に異心(オエレ)なき証左に、先日のお召しに応じて彼は即座に参上いたしました。これはもしや玉体に異状があったのではないかと憂えたゆえのこと。真に忠良(シドゥルグ)の臣とはヘンケのことを申すのです。これを罰するなどもっての外、かかる忠臣も小過に死を賜うということになれば、大カンに忠誠を尽くさんとする臣はいなくなってしまいます。それこそ大カンのためにおおいに憂えるところです」


 ミクケルは少しく考えている様子。チンサンもわなわなと(オロウル)を震わせるばかりで、すぐには反論もままならない。ヒラトは力を得て言った。


「一方、その息子アサン・セチェンはといえば、まったくの無実。かのものは父親(エチゲ)の帰還が遅いのを(おもんぱか)って遠来したのみ、これぞ泰平(ヘンケ)の基たる孝の精神ではありませんか。家において孝なるは、すなわち君において忠である(あかし)であります。かくして上下の序は定まり、民は生業に(いそ)しみ、大カンは王業を成すことがかなうのです。これを罰するは人衆に孝を禁ずるようなもの、上を軽んずることを教えるようなものです。もとよりアサンは人望厚く、人衆はみなこれを慕い、範としております。かかる人物こそ重用し、厚遇することが天下に安定をもたらすのです。大カンのために計るに、即刻両名に恩を賜い、罪を(ゆる)すことが良策かと存じます」


 ミクケルはううむと唸る。ヒラトは一瞬、ことに及ばずとも収めることができるのではないかと期待を抱いた。実際、ミクケルはおおいに心を動かされた様子で、


「なるほど、お前の言い分はよく解った。では……」


 安堵しかけたそのとき、傍らから声が飛んだ。


「お待ちください!」


 はっとして見遣(みや)れば、四姦の一たるクルドが拱手して向き直っている。ミクケルは言いかけた言葉を吞み込んだ。クルドはおもむろに居住まいを正すと、


「大カンよ、佞臣の巧言に惑わされてはなりません。かのものこそ不忠を為し、部族(ヤスタン)を傾ける大患です」


「何を言うか! 君を惑わし、(バルアナチャ)を苦しめているのは……」


 ヒラトは思わず激昂(デクデグセン)して立ち上がる。


「控えよ! クルド、何故にそう言うのだ」


 ミクケル自ら制して、先を(うなが)す。応じて血の気の薄い顔に笑みを浮かべて、


「こやつは大カンの信任厚いのをよいことに叛臣を(かば)い、大カンを欺かんとしております。こやつは元来、口舌の徒(ビルヂウル)、己の罪を糊塗(注1)して大カンの意を迎えることに()けております。常々我ら忠良の臣はこやつが政事を壟断(ろうだん)(注2)していることを苦々しく思っておりましたが、今日こそはもはや(ゆる)せませぬ」


 挑みかかるようにヒラトを睨み据えながら、さらに言うには、


「人衆は朝廷にヒラトあるを知って大カンあるを知りませぬ。此奴は有能をもって自ら誇り、大カンの意向を軽んじて権勢を振るっております。天下の人望はかの佞臣に集まり、それでいて身を慎まぬは必ず異心あるに相違ありません。今また巧みに叛臣を弁護し、君恩を忘れた無礼な言辞の数々、心あるものは一様に(フムスグ)(ひそ)めております。世間(オルチロン)では、これに簒奪の大望ありなどと噂しておりますぞ」


 それを聞いてミクケルの顔はみるみる怒り(アウルラアス)に赤く染まる。

(注1)【糊塗】曖昧に取り(つくろ)うこと。一時しのぎにごまかすこと。


(注2)【壟断(ろうだん)】利益、権利を独占すること。

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