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草原演義  作者: 秋田大介
巻五
247/785

第六 二回 ③

アサン心を究めて急火箭の陋見(ろうけん)(さと)

スク鷹を追って蒼鷹娘の艶美に()

 アサンは、三人ともに制して言った。


「しかし、やはり時期尚早と云うべきでしょう」


「えっ?」


 ヨツチは思わず(ダウン)を挙げ、ボッチギンらは密かにほっと息を吐く。アサンはにこにこと微笑みながら、諄々(じゅんじゅん)と説いて言うには、


「急火箭殿は天意、天命(ヂヤー)と言う。たしかに天命を失った(エヂェン)は、主とは言えますまい。しかしただこれを討てばよいかというと、そうでもない。というのは、これを討つものもまた天命を得た、天意に沿ったものでなくてはいけないからです。そうでなければ単なる叛乱(ブルガ)、不忠の士に過ぎません。主を討つのは不義です。不義を犯したものに天命が下るでしょうか。人衆(ウルス)が従うでしょうか」


「しかしそれでは非道を許すことにならぬか」


「天命を(あらた)めるには、やはり天の(チャク)というものがあります。ヒラトやチルゲイは、それを待っているのでしょう。今、急火箭殿が(いきどお)りに任せて動いては、それを逃すかもしれません。さすれば貴殿は汚名を残すばかり、好漢(エレ)にも人衆にも末代まで恨まれるでしょう。よいですか、一刻も早く不義は除かねばなりません。これは貴殿が正しい。しかし討つ側に義がなければ、決して人衆を救うことはできません」


「ふうむ。難しい(ヘツウ)ことはよく解らぬが、なるほど、俺に不忠を覆って(あま)りある義があるかというと自信がないな。……しかし、しかしやはり討たねばならぬだろう」


 ボッチギンがテンゲリを仰ぐが、アサンはますます表情を(やわ)らげて頷くと、


「では別の方面から考えてみましょう。近ごろのカンのなされようはたしかによろしくない。このままでは部族(ヤスタン)疲弊(ハウタル)し、いつか近隣(サーハルト)部族(ヤスタン)から侵略を受けるでしょう。人衆は苦しみ、多くの兵が無益に死ぬことになります。これは何とかしなければならない。それは間違っていません」


 三人は真摯に次の言葉(ウゲ)を待つ。再び(アマン)を開くと、


「しかし先見なく兵を起こしても結果は同じことです。部族(ヤスタン)が混乱して幾つもの勢力に分かれ、内戦(ブルガルドゥアン)が続けば、近隣の部族(ヤスタン)は好機とばかりに兵を向けるでしょう。内戦の患は先のジョルチ部を見れば明らかです。そう考えれば、ただカンとその近臣を討てばよいというものではない。その後の方向をしっかりと定めておかねばなりません。ヒラトたちが準備を進めているのでしょうが、まだ万全ではないのでしょう。なのに急火箭殿が大声で騒げば、その進行も遅れざるをえない。すなわち決起も遅れる(ウダル)ということです。お解りですか?」


「はあ、何となく……」


 ゆっくりと噛んで含めるように言うには、


「私は革命に反対しているわけではないのです。ただ人衆のためにも、ことは必ず成功させねばなりません。成功とは、混乱なく速やかに新政に移行することです。クル・ジョルチ部ら外敵(ダイスンクン)に隙を与えず、ウリャンハタ部が長きに(わた)って分裂することのない方策、それはヒラトらが懸命に考えています。ただ実際にそのときが来たら、きっと急火箭殿の(クチ)必要(ヘレグテイ)かと思います。それまでは英気を養っておくのが賢明(ボクダ)です」


 ヨツチはしばらく唸っていたが、やがて言った。


「最後は俺の出番が来るというわけだな。うん、難しいことはともかくアサンが言うならそうなのだろう。ここは知恵者(セチェン)(まか)せて待つとするか」


 ボッチギンとシンの二人はやっと(オモリウド)を撫で下ろす。ヨツチは何度も頷いていたが、つと(ヌル)を上げると、


「しかし、もしカンのやり方を見て腹に据えかねたときはどうすればいい? 俺は辛抱ができぬ(たち)なのだが」


 また傍ら(デルゲ)の二人は顔色を変える。アサンは頷いて言った。


「私は世にはふたつの勇気(ヂルケ)があると聞いています。ひとつはカンのなされようを見て怒り(アウルラアス)心頭に発し、単身乗り込んで諫める、あるいはこれを討つ勇気。貴殿はこちらの勇気は十分と見えます」


 ヨツチは我が意を得たりと大きく頷く。アサンは続けて、


「しかし、その場をじっと耐え忍んで野に伏せて機を待ち、後日衆望を担って堂々の(トグ)を掲げて不義を(ただ)す。これも勇気です。そして私は、後者こそ大勇であると聞いています。なぜなら怒りに身を任せることは凡人にも易いが、怒りを(こら)えることは難しいからです。急火箭殿は勇気に富んだ人ですから、きっとこの(ヨス)を解ってもらえると思いますが」


 ヨツチはううむと唸って黙り込む。アサンは笑って、


「腹が立ったときはいつでも来てください。私もともに憂えましょう」


 (ようや)くヨツチの顔に喜色が浮かぶ。シン・セクがあわてて自らの顔を指して、


「アサン、俺も来てよいか?」


 これももちろん快諾される。麒麟児、渾沌郎君、急火箭の三人はおおいに満足して帰ったが、この話はここまでにする。




 さて、スク・ベクは相変わらず鬱々と暮らしていたが、ふと近ごろシン・セクの顔を見ていないことに気がついた。思うに、


「ううむ、あんなうるさい男でもしばらく見ないと寂しいものだ。ひとつ様子を見に行ってやろう」


 早速、(モリ)(また)がってネサク氏のアイルへと向かう。久々に外に出れば、テンゲリは驚くほど高く、そよそよと(サルヒ)が吹いて実に心地好い。(なび)(ウヴス)は青々とどこまでも続き、彼方を眺めれば羊飼い(ホニチド)(ホニデイ)群れ(スルグ)を追っている。(ナラン)は燦々と輝き、駆けるほどに気分が良くなってくる。


「俺はどれだけの間、外に出なかったのだろう。うっかりしてこんな好い季節を知らずに過ぎるところだった」


 憂いも忘れて(ウマルタヂュ)すっかり嬉しくなると、威勢よく馬腹を蹴った。

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