第六 二回 ③
アサン心を究めて急火箭の陋見を諭し
スク鷹を追って蒼鷹娘の艶美に遇う
アサンは、三人ともに制して言った。
「しかし、やはり時期尚早と云うべきでしょう」
「えっ?」
ヨツチは思わず声を挙げ、ボッチギンらは密かにほっと息を吐く。アサンはにこにこと微笑みながら、諄々と説いて言うには、
「急火箭殿は天意、天命と言う。たしかに天命を失った主は、主とは言えますまい。しかしただこれを討てばよいかというと、そうでもない。というのは、これを討つものもまた天命を得た、天意に沿ったものでなくてはいけないからです。そうでなければ単なる叛乱、不忠の士に過ぎません。主を討つのは不義です。不義を犯したものに天命が下るでしょうか。人衆が従うでしょうか」
「しかしそれでは非道を許すことにならぬか」
「天命を革めるには、やはり天の機というものがあります。ヒラトやチルゲイは、それを待っているのでしょう。今、急火箭殿が憤りに任せて動いては、それを逃すかもしれません。さすれば貴殿は汚名を残すばかり、好漢にも人衆にも末代まで恨まれるでしょう。よいですか、一刻も早く不義は除かねばなりません。これは貴殿が正しい。しかし討つ側に義がなければ、決して人衆を救うことはできません」
「ふうむ。難しいことはよく解らぬが、なるほど、俺に不忠を覆って剰りある義があるかというと自信がないな。……しかし、しかしやはり討たねばならぬだろう」
ボッチギンがテンゲリを仰ぐが、アサンはますます表情を和らげて頷くと、
「では別の方面から考えてみましょう。近ごろのカンのなされようはたしかによろしくない。このままでは部族は疲弊し、いつか近隣の部族から侵略を受けるでしょう。人衆は苦しみ、多くの兵が無益に死ぬことになります。これは何とかしなければならない。それは間違っていません」
三人は真摯に次の言葉を待つ。再び口を開くと、
「しかし先見なく兵を起こしても結果は同じことです。部族が混乱して幾つもの勢力に分かれ、内戦が続けば、近隣の部族は好機とばかりに兵を向けるでしょう。内戦の患は先のジョルチ部を見れば明らかです。そう考えれば、ただカンとその近臣を討てばよいというものではない。その後の方向をしっかりと定めておかねばなりません。ヒラトたちが準備を進めているのでしょうが、まだ万全ではないのでしょう。なのに急火箭殿が大声で騒げば、その進行も遅れざるをえない。すなわち決起も遅れるということです。お解りですか?」
「はあ、何となく……」
ゆっくりと噛んで含めるように言うには、
「私は革命に反対しているわけではないのです。ただ人衆のためにも、ことは必ず成功させねばなりません。成功とは、混乱なく速やかに新政に移行することです。クル・ジョルチ部ら外敵に隙を与えず、ウリャンハタ部が長きに亘って分裂することのない方策、それはヒラトらが懸命に考えています。ただ実際にそのときが来たら、きっと急火箭殿の力が必要かと思います。それまでは英気を養っておくのが賢明です」
ヨツチはしばらく唸っていたが、やがて言った。
「最後は俺の出番が来るというわけだな。うん、難しいことはともかくアサンが言うならそうなのだろう。ここは知恵者に委せて待つとするか」
ボッチギンとシンの二人はやっと胸を撫で下ろす。ヨツチは何度も頷いていたが、つと顔を上げると、
「しかし、もしカンのやり方を見て腹に据えかねたときはどうすればいい? 俺は辛抱ができぬ質なのだが」
また傍らの二人は顔色を変える。アサンは頷いて言った。
「私は世にはふたつの勇気があると聞いています。ひとつはカンのなされようを見て怒り心頭に発し、単身乗り込んで諫める、あるいはこれを討つ勇気。貴殿はこちらの勇気は十分と見えます」
ヨツチは我が意を得たりと大きく頷く。アサンは続けて、
「しかし、その場をじっと耐え忍んで野に伏せて機を待ち、後日衆望を担って堂々の旗を掲げて不義を匡す。これも勇気です。そして私は、後者こそ大勇であると聞いています。なぜなら怒りに身を任せることは凡人にも易いが、怒りを堪えることは難しいからです。急火箭殿は勇気に富んだ人ですから、きっとこの理を解ってもらえると思いますが」
ヨツチはううむと唸って黙り込む。アサンは笑って、
「腹が立ったときはいつでも来てください。私もともに憂えましょう」
漸くヨツチの顔に喜色が浮かぶ。シン・セクがあわてて自らの顔を指して、
「アサン、俺も来てよいか?」
これももちろん快諾される。麒麟児、渾沌郎君、急火箭の三人はおおいに満足して帰ったが、この話はここまでにする。
さて、スク・ベクは相変わらず鬱々と暮らしていたが、ふと近ごろシン・セクの顔を見ていないことに気がついた。思うに、
「ううむ、あんなうるさい男でもしばらく見ないと寂しいものだ。ひとつ様子を見に行ってやろう」
早速、馬に跨がってネサク氏のアイルへと向かう。久々に外に出れば、テンゲリは驚くほど高く、そよそよと風が吹いて実に心地好い。靡く草は青々とどこまでも続き、彼方を眺めれば羊飼いが羊の群れを追っている。陽は燦々と輝き、駆けるほどに気分が良くなってくる。
「俺はどれだけの間、外に出なかったのだろう。うっかりしてこんな好い季節を知らずに過ぎるところだった」
憂いも忘れてすっかり嬉しくなると、威勢よく馬腹を蹴った。




