第六 一回 ①
チルゲイ勧めて牙狼の将を北辺に派し
シン・セク往きて異相の娘を西原に見る
ジョルチ部のナーダムは成功裡に終わった。諸方の賓客たちも帰途に就き、それぞれに新生ジョルチ部の興隆を伝えた。
マシゲル部のアンチャイ・ハトンは、幼馴染みのアネクがジョルチン・ハーンの皇后に立てられたと聞いて、おおいに驚きかつ喜んだ。ギィもベルダイで見た美しい女将軍を思い出して、インジャとの出逢いに思いを馳せた。
ヤクマン部のオンヌクドは宴会には出ずに、競馬が終わるや南原に帰って主君のムジカに盛会のさまを伝えた。立皇后にも触れたが、何となくタゴサを憚ってアネクの気性には言及しなかった。
ウリャンハタ部の奇人チルゲイは、ミヤーン、クニメイらとともにタロト軍に随行した。彼らはタムヤでさらに宴を楽しんだが、マタージがクニメイに言うには、
「この街も平静を取り戻しつつある。そこで是非カムタイと通商を開きたいのだが、どうだろう」
もちろん快諾したが、チルゲイが口を挟んで、
「カムタイとタムヤの間にはイシがある。これを宰領するのはミクケルの腹心ツォトンだ。目を付けられないよう注意しろ」
笑いながら答えて、
「いかにも。私とて商人、うまくやるさ。幸いウリャンハタの内情は安定している。目を盗むことくらいわけなかろう。今までだってそうしてきたのだから」
するとチルゲイは途端に顔を曇らせて、
「今まではそうだ。しかしこの先は判らん」
「何だ、乱の兆しでもあるのか」
マタージ・ハーンが身を乗り出して尋ねると、奇人は手をひらひらと振って、
「天網恢々、疎にして失わず(注1)、ってところだ」
意味不明の言辞を弄してみなを煙に巻く。
翌朝、西原の好漢たちは、メンドゥ河を渡って帰っていった。すなわちクニメイはカムタイへ、ミヤーンとチャオはイシへ、チルゲイはウリャンハタへ。
チルゲイは無事にアイルへ戻ると、旅装も解かずにまずヒラトを訪ねた。案内も請わずにさっと中へ入れば、ヒラトはおおいに驚いて、
「チルゲイではないか。いつ戻った」
「まさに今帰ったところだ。その後はどうだ?」
ヒラトは肩を落として言った。
「好くない」
「そうか」
短く答えて、対面にどっかと腰を下ろす。ヒラトは側使いに酒食の用意を命じたが、それからひと言も発しない。酒食が並べられると、やっと口を開いて、
「みなの忍耐は限度に達しようとしている」
「ふうむ」
チルゲイは遠慮なく飲み、かつ喰らいながら耳を傾けている。
「シン・セクあたりが明日にもことを起こしそうな気勢を上げている」
「なるほど」
心ここにあらぬ様子に、ヒラトは少しく苛立って、
「お前のいない間に事件があった。爾来、抑えが効かなくなりつつある」
「事件?」
初めてチルゲイが顔を上げる。眉間に皺を寄せて頷くと、
「カムタイの知事ズキン・ヂドゥ父子が誅戮された。もちろん過失があったわけではない。冤罪だ」
さすがの奇人も驚愕のあまり目を見開いて静止する。しばらくしてやっと馬乳酒をひと口含んで言うには、
「ズキン・ヂドゥといえば、スク・ベクの実父ではないか。まさか……」
それを中途で制すると、
「不幸中の幸いといえばスクの罪が問われなかったこと。処刑されたのはカムタイにいたズキンと、スクの兄だ」
ふううと溜息を吐くと、
「スクはどうしている?」
「ゲルで喪に服している。これを聞いて我らがどれだけ憤慨したか想像できよう。シン・セクや、ヨツチといった急進派が発言力を増している」
チルゲイは眉を歪めて唸った。
「ふうむ、まずいなあ。内密に動かねばことを毀るぞ」
「そうだ。ゆえに懸命に抑えているのだが……」
ヒラトもますます難しい顔で鬱ぎ込む。
「アサン・セチェンは何と?」
「それが唯一の恃みだ。今のところアサンが賛成していない。それでやっとシンらも思い止まっているのだ。それもいつまで続くか」
チルゲイはうっすらと笑みを浮かべて、
「アサンの同意なくして起つことはない。案ずるな、案ずるな。カントゥカはどうしている?」
「相変わらず北辺の防備だ。クル・ジョルチ部の連中がうるさいからな。何とかして中央に呼び戻そうと思うのだが」
「ならばカムカ・チノに意を含めて交替してもらえばよい」
あっさり言えば、ヒラトは手を拍って叫んだ。
「なるほど、その手があった! 奴なら適任だ」
気を好くして初めて料理に手を伸ばす。そして言った。
「お前もしばらくどこへも行くな」
「もとより承知している。遊ばせてもらったから多少は役に立たないとな。みなに申し訳ない」
つと顔を上げて、
「申し訳ないだと? 本心か?」
「いや、戯言だ。言ってみたかっただけだ、気にするな」
(注1)【天網恢々……】天の網の目は一見粗いようだが、決して悪を見過ごすことはない、という意味。「恢々」は、大きく広いさま。




