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草原演義  作者: 秋田大介
巻五
241/785

第六 一回 ①

チルゲイ勧めて牙狼の将を北辺に派し

シン・セク往きて異相の娘を西原に見る

 ジョルチ部のナーダムは成功裡に終わった。諸方の賓客(ヂョチ)たちも帰途に就き、それぞれに新生(シネ)ジョルチ部の興隆を伝えた。


 マシゲル部のアンチャイ・ハトンは、幼馴染みのアネクがジョルチン・ハーンの皇后(ハトン)に立てられたと聞いて、おおいに驚きかつ喜んだ。ギィもベルダイで見た美しい女将軍を思い出して、インジャとの出逢いに思いを馳せた。


 ヤクマン部のオンヌクドは宴会には出ずに、競馬が終わるや南原に帰って主君(エヂェン)のムジカに盛会のさまを伝えた。立皇后にも触れたが、何となくタゴサを(はばか)ってアネクの気性(チナル)には言及しなかった。


 ウリャンハタ部の奇人チルゲイは、ミヤーン、クニメイらとともにタロト軍に随行した。彼らはタムヤでさらに宴を楽しんだが、マタージがクニメイに言うには、


「この(バリク)も平静を取り戻しつつある。そこで是非カムタイと通商を開きたいのだが、どうだろう」


 もちろん快諾したが、チルゲイが(アマン)を挟んで、


「カムタイとタムヤの間にはイシがある。これを宰領するのはミクケルの腹心ツォトンだ。(ニドゥ)を付けられないよう注意しろ」


 笑いながら答えて、


いかにも(ヂェー)。私とて商人(サルタクチン)、うまくやるさ。幸いウリャンハタの内情(アブリ)は安定している。目を盗むことくらいわけなかろう。今までだってそうしてきたのだから」


 するとチルゲイは途端に(ヌル)を曇らせて、


「今まではそうだ。しかしこの先は判らん」


「何だ、乱の兆しでもあるのか」


 マタージ・ハーンが身を乗り出して尋ねると、奇人は(ガル)をひらひらと振って、


「天網恢々(かいかい)()にして失わず(注1)、ってところだ」


 意味不明の言辞(ウゲ)を弄してみなを(けむ)に巻く。




 翌朝、西原の好漢(エレ)たちは、メンドゥ(ムレン)を渡って帰っていった。すなわちクニメイはカムタイへ、ミヤーンとチャオはイシへ、チルゲイはウリャンハタへ。


 チルゲイは無事にアイルへ戻ると、旅装も解かずにまずヒラトを訪ねた。案内も請わずにさっと中へ入れば、ヒラトはおおいに驚いて、


「チルゲイではないか。いつ戻った」


「まさに今帰ったところだ。その後はどうだ?」


 ヒラトは(ムル)を落として言った。


()くない」


「そうか」


 短く答えて、対面にどっかと腰を下ろす。ヒラトは側使い(エムチュ)に酒食の用意を命じたが、それからひと言も発しない。酒食が並べられると、やっと口を開いて、


「みなの忍耐は限度に達しようとしている」


「ふうむ」


 チルゲイは遠慮なく飲み、かつ喰らいながら(チフ)を傾けている。


「シン・セクあたりが明日にもことを起こしそうな気勢を上げている」


「なるほど」


 (オロ)ここにあらぬ様子に、ヒラトは少しく苛立って、


「お前のいない間に事件があった。爾来(じらい)、抑えが効かなくなりつつある」


「事件?」


 初めてチルゲイが顔を上げる。眉間に皺を寄せて頷くと、


「カムタイの知事(ダルガチ)ズキン・ヂドゥ父子が誅戮された。もちろん過失(アルヂアス)があったわけではない。冤罪だ」


 さすがの奇人も驚愕のあまり目を見開いて静止する。しばらくしてやっと馬乳酒(アイラグ)をひと口含んで言うには、


「ズキン・ヂドゥといえば、スク・ベクの実父(エチゲ)ではないか。まさか……」


 それを中途で制すると、


「不幸中の幸いといえばスクの罪が問われなかったこと。処刑されたのはカムタイにいたズキンと、スクの(アカ)だ」


 ふううと溜息を吐くと、


「スクはどうしている?」


「ゲルで喪に服している。これを聞いて我らがどれだけ憤慨したか想像できよう。シン・セクや、ヨツチといった急進派が発言力を増している」


 チルゲイは(フムスグ)(ゆが)めて唸った。


「ふうむ、まずいなあ。内密(ニウチャ)に動かねばことを(やぶ)るぞ」


そうだ(ヂェー)。ゆえに懸命に抑えているのだが……」


 ヒラトもますます難しい顔で(ふぎ)ぎ込む。


「アサン・セチェンは何と?」


「それが唯一(ガグチャ)(たの)みだ。今のところアサンが賛成していない。それでやっとシンらも思い止まっているのだ。それもいつまで続くか」


 チルゲイはうっすらと笑みを浮かべて、


「アサンの同意なくして()つことはない。案ずるな、案ずるな。カントゥカはどうしている?」


「相変わらず北辺の防備だ。クル・ジョルチ部の連中がうるさいからな。何とかして中央(オルゴル)に呼び戻そうと思うのだが」


「ならばカムカ・チノに意を含めて交替してもらえばよい」


 あっさり言えば、ヒラトは手を()って叫んだ。


「なるほど、その手があった! 奴なら適任だ」


 気を好くして初めて料理に手を伸ばす。そして言った。


「お前もしばらくどこへも行くな」


「もとより承知している。遊ばせてもらったから多少は役に立たないとな。みなに申し訳ない」


 つと顔を上げて、


「申し訳ないだと? 本心(カダガトゥ)か?」


いや(ブルウ)、戯言だ。言ってみたかっただけだ、気にするな」

(注1)【天網恢々(かいかい)……】天の網の目は一見粗いようだが、決して悪を見過ごすことはない、という意味。「恢々」は、大きく広いさま。

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