第五 九回 ③
赤心王ヂャサを制定して民人に遵わせ
義武君ハトンを冊立して兄弟を驚かす
草原に夏が来た。ジョルチ部では、神道子ナユテが吉日を選び、部族の祭典であるナーダムを開催した。会場は、宮廷の南方四十里に広がるヌンヂ平原。ちなみにヌンヂとは「動かざる」の意である。
今回のナーダムでは、競技に先立ってインジャの即位式ならびに立皇后、功臣の表彰が行われ、そのあとでテンゲリに奉納する相撲、弓射、競馬が催されることになっていた。このみっつこそ伝統的なナーダムの競技。
ナーダムの復興は部族統一の象徴であるということで、方々から興奮した人衆が集まって、おおいに活況を呈していた。
またタロト部よりマタージとゴルタが、マシゲル部よりゴロ・セチェンが、ナルモント部よりキセイが賓客として列席した。
加えてウリャンハタ部のチルゲイも再び顔を見せ、カムタイからはクニメイが、イシからはミヤーンとチャオが、タムヤからはエジシがそれぞれやってきて、好漢たちと再会を祝した。
また密かにヤクマン部のムジカは、腹心のオンヌクドを派遣してこれを視察させたが、チルゲイらにすぐに見つかるところとなった。奇人は嬉しそうに言うには、
「ははあ、ムジカめ。自ら来たかったのだろうが、それは無理な話というわけだ。残念そうな顔が目に浮かぶわ」
晴天の下、爆竹が一斉に弾けて、歓声とともに即位式が始まった。この爆竹は紅大郎クニメイが無償で提供したものである。
築かれた壇の前には、ジョルチン・ハーンの黄金の僚友がずらりと座り、周囲を「ハーンの番犬」たる紅袍軍が護っている。
金鼓が盛大に轟き、軽妙な胡弓の調べがそれに続く。群衆の期待を受けてインジャが進み出ると、壇に上がってまずはテンゲリに改めて即位を告げ、さらなる加護を祈念する。
続いて群衆のほうへ向き直ると、諸将の功績を順に賞した。まずナオルとトシ・チノが呼ばれて斧鉞を授けられ、正式に右王、左王となる。二人は平伏して君命を拝し、尽力することを誓う。群衆は歓声をもってこれを讃える。
次いでサノウが断事官の位を授けられる。さらにセイネンが近衛軍の大将となる。この四人こそ、自他ともに認める新生ジョルチの中核であった。
その後、コヤンサン、シャジ、ドクト、テムルチら千人長が続々と任命される。群衆は新たな任命がされるたびに歓呼の声を挙げ、ヌンヂ平原は異様な興奮に包まれた。
彼らの興奮が頂点に達したのは、もちろんジョルチン・ハーンの皇后が発表されたときである。インジャはこれまで一人の妻も持たなかったから、誰もが注目していた。一部ではハトンを立てないのではないかとすら囁かれていた。
インジャは一旦壇を下り、タンヤンら近侍のものに護られて天幕の中に消えた。しばらくして出てきたインジャを見て、誰もが等しく感嘆の息を漏らした。
彼らのハーンは紅い軍装に身を固め、頭上には羽飾りの付いた冠を戴き、背には黄金の弓を負い、腰には宝剣を佩いて再登場したのである。
タンヤンが牽いてきた駿馬に颯爽と跨がると、信頼ある黄金の僚友の前を悠然と進みはじめる。みな何ごとが始まるのかと思いながら黙って座している。
やがてインジャは、一人の僚友の前で馬を止めた。そしてやや頬を上気させつつ、それでも明瞭なよく通る声で言うには、
「目に炎あり、頬に光ある乙女よ。汝をハトンとして万民に示そう。立って我とともに来たれ」
すると答えて、
「目に炎あり、頬に光あるハーンよ。言葉のままに、御心のままに」
そう言ってすっと立ち上がる。インジャは頷くと、親ら手を差し延べて、彼女を鞍の上に引き上げた。手綱を引いて馬首を廻らすと、また悠々と壇へ向かう。
一連のことを群衆はもとより、黄金の僚友の多くもただ呆然と眺めていた。ほとんどのものはいったい何が起こっているのかすぐには理解できなかったのである。
鞍上にインジャとともにあるのは、ベルダイ氏キハリ家の女傑チハル・アネク。ジョルチ部の誇る鉄鞭の女将軍こそ、インジャの選んだハトンであった。
やっと事態を呑み込んだ好漢たちの多くは開いた口が塞がらない。それはアネクのハトン冊立に不満があるわけでは無論なく、ただ驚きのあまり思考が麻痺してしまったのである。
ハトンとしてアネクが内定しているのを事前に知らされていたのは、当人を除けば、副主たるナオル、ベルダイの族長トシ・チノ、ことを占ったナユテ、近侍するタンヤン、あとはハツチだけであった。
もっともジュゾウなどは前々から予測していたことではあったけれども。
インジャとアネクは、馬を降りてともに壇に上がった。並んで立つとインジャが言うには、
「我が兄弟、そして人衆よ。永えの天の力にて、部族の母たるハトンとして、ここにあるベルダイ氏キハリ家のチハル・アネクを立てることを告げよう」
一瞬の沈黙のあと、大歓声が巻き起こる。驚きと喜びが大きなうねりとなって「動かざる平原」をどよもした。インジャはますます頬を紅潮させていた。傍らにあるアネクもそれは同じこと。




