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草原演義  作者: 秋田大介
巻四
235/785

第五 九回 ③

赤心王ヂャサを制定して民人に(したが)わせ

義武君ハトンを冊立(さくりつ)して兄弟を驚かす

 草原(ミノウル)(ゾン)が来た。ジョルチ部では、神道子ナユテが吉日を選び、部族(ヤスタン)の祭典であるナーダムを開催した。会場は、宮廷(オルド)の南方四十里に広がるヌンヂ平原。ちなみにヌンヂとは「動かざる」の意である。


 今回のナーダムでは、競技に先立ってインジャの即位式ならびに立皇后、功臣の表彰が行われ、そのあとでテンゲリに奉納(オルゴフ)する相撲、弓射、競馬が催されることになっていた。このみっつこそ伝統的なナーダムの競技。


 ナーダムの復興は部族(ヤスタン)統一の象徴であるということで、方々から興奮した人衆(ウルス)が集まって、おおいに活況を呈していた。


 またタロト部よりマタージとゴルタが、マシゲル部よりゴロ・セチェンが、ナルモント部よりキセイが賓客として列席した。


 加えてウリャンハタ部のチルゲイも再び(ヌル)を見せ、カムタイからはクニメイが、イシからはミヤーンとチャオが、タムヤからはエジシがそれぞれやってきて、好漢(エレ)たちと再会を祝した。


 また密かにヤクマン部のムジカは、腹心のオンヌクドを派遣してこれを視察させたが、チルゲイらにすぐに見つかるところとなった。奇人は嬉しそうに言うには、


「ははあ、ムジカめ。自ら来たかったのだろうが、それは無理な話というわけだ。残念そうな顔が(ニドゥ)に浮かぶわ」


 晴天の下、爆竹が一斉に(はじ)けて、歓声とともに即位式が始まった。この爆竹は紅大郎(アル・バヤン)クニメイが無償で提供したものである。


 築かれた壇の前には、ジョルチン・ハーンの黄金の僚友(アルタン・ネケル)がずらりと座り、周囲を「ハーンの番犬」たる紅袍軍(フラアン・デゲレン)が護っている。


 金鼓が盛大に轟き、軽妙な胡弓(ホール)の調べがそれに続く。群衆(バルアナチャ)の期待を受けてインジャが進み出ると、壇に上がってまずはテンゲリに改めて即位を告げ、さらなる加護を祈念する。


 続いて群衆のほうへ向き直ると、諸将の功績を順に賞した。まずナオルとトシ・チノが呼ばれて斧鉞(ふえつ)を授けられ、正式に右王、左王となる。二人は平伏して君命を拝し、尽力することを誓う。群衆は歓声をもってこれを讃える。


 次いでサノウが断事官(ヂャルグチ)の位を授けられる。さらにセイネンが近衛軍(ケシクテン)の大将となる。この四人こそ、自他ともに認める新生(シネ)ジョルチの中核(ヂュルケン)であった。


 その後、コヤンサン、シャジ、ドクト、テムルチら千人長(ミンガン)が続々と任命される。群衆は新たな任命がされるたびに歓呼の(ダウン)を挙げ、ヌンヂ平原は異様な興奮に包まれた。


 彼らの興奮が頂点に達したのは、もちろんジョルチン・ハーンの皇后(ハトン)が発表されたときである。インジャはこれまで一人の(エメ)も持たなかったから、誰もが注目していた。一部ではハトンを立てないのではないかとすら(ささや)かれていた。


 インジャは一旦壇を下り、タンヤンら近侍のものに護られて天幕(チャチル)の中に消えた。しばらくして出てきたインジャを見て、誰もが等しく感嘆の息を漏らした。


 彼らのハーンは紅い軍装に身を固め、頭上には羽飾りの付いた冠を戴き、(ノロウ)には黄金(アルタン)の弓を負い、腰には宝剣を()いて再登場したのである。


 タンヤンが()いてきた駿馬(クルゥグ)颯爽(オキタラ)(また)がると、信頼(イトゥゲルテン)ある黄金の僚友(アルタン・ネケル)の前を悠然と進みはじめる。みな何ごとが始まるのかと思いながら黙って座している。


 やがてインジャは、()()()()()()()()(アクタ)を止めた。そしてやや(ハツァル)を上気させつつ、それでも明瞭なよく通る声で言うには、


「目に(ガル)あり、頬に光ある乙女(オキン)よ。汝をハトンとして万民に示そう。立って我とともに来たれ」


 すると答えて、


「目に炎あり、頬に光あるハーンよ。言葉(ウゲ)のままに、御心(オロ)のままに」


 そう言ってすっと立ち上がる。インジャは頷くと、(みずか)(ガル)を差し延べて、彼女を(エメル)の上に引き上げた。手綱(デロア)を引いて馬首を(めぐ)らすと、また悠々と壇へ向かう。


 一連のことを群衆はもとより、黄金の僚友(アルタン・ネケル)の多くもただ呆然と眺めていた。ほとんどのものはいったい何が起こっているのかすぐには理解できなかったのである。




 鞍上にインジャとともにあるのは、ベルダイ氏キハリ家の女傑()()()()()()()。ジョルチ部の誇る鉄鞭(テムル・タショウル)の女将軍こそ、インジャの選んだハトンであった。




 やっと事態を呑み込んだ好漢たちの多くは開いた(アマン)(ふさ)がらない。それはアネクのハトン冊立に不満があるわけでは無論なく、ただ驚きのあまり思考が麻痺してしまったのである。


 ハトンとしてアネクが内定しているのを事前に知らされていたのは、当人を除けば、副主たるナオル、ベルダイの族長(ノヤン)トシ・チノ、ことを占ったナユテ、近侍するタンヤン、あとはハツチだけであった。


 もっともジュゾウなどは前々から予測(ヂョン)していたことではあったけれども。


 インジャとアネクは、馬を降りてともに壇に上がった。並んで立つとインジャが言うには、


「我が兄弟、そして人衆よ。永えの(モンケ・テンゲリ)天の力(・イン・クチュン)にて(・ドゥル)部族(ヤスタン)(エケ)たるハトンとして、ここにあるベルダイ氏キハリ家のチハル・アネクを立てることを告げよう」


 一瞬の沈黙のあと、大歓声が巻き起こる。驚きと喜びが大きなうねりとなって「動かざる平原」をどよもした。インジャはますます頬を紅潮させていた。傍ら(デルゲ)にあるアネクもそれは同じこと。

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