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草原演義  作者: 秋田大介
巻四
230/785

第五 八回 ②

トシ・チノ巧みに衆を駆りて赤誠を主に示し

インジャ(つい)に壇を築きて即位を天に告ぐ

 インジャはあわててこれを助け起こすと、


「ベルダイの結束(ヂャンギ)はジョルチの(イヂェ)だ。トシ・チノの英明(ボクダ)はジョルチの(ダナ)だ。私は山塞に貴公を迎えてより、これを(たの)みとしなかったことはない。これからもともに草原(ミノウル)に道を行い、ともに姦悪を誅し、ともにテンゲリに仕えようではないか」


「義兄上の言葉(ウゲ)のままに」


 ベルダイの兵衆は一斉に歓呼の(ダウン)を挙げる。二人が壇上より降りてくると、サノウが平伏して言った。


「このサノウ、(あがな)いきれぬ大罪を犯すところでした。ひとつにはトシ殿の忠心(シドゥルグ)を疑い、ふたつにはインジャ様の名を(おとし)め、みっつには兄弟の(エイエ)を乱すところを、両兄の人徳をもってことなきを得ました。ただ伏して処断を待つばかりです」


 これもあわてて助け起こして、


「軍師、我らは死生をともにし、大志を分かつ兄弟ではないか。軍師には軍師の考えがあって禍を憂えたもの、何を(とが)めることがあろう。むしろこれからも私の浅慮の至らぬところを補ってほしい」


 さしものサノウも、この言葉にはおおいに(セトゲル)を動かされた。諸将はうち揃って宴席に戻ったが、くどくどしい話は抜きにする。




 インジャはそれからベルダイ氏のアイルに数日間滞在した。連れてきた好漢(エレ)は、チルゲイとナユテを残して先に帰してしまった。


 トシ・チノらと親しく交わる一方で、キハリ家などの有力な家々を訪ねて、忙しそうに飛び回る。そこには二人の客人(ヂョチ)は伴わなかったので、チルゲイとナユテは自由(ダルカラン)にアイルの中をうろついて(ウドゥル)を過ごした。


 インジャが帰途に就くと、例の巨漢(アヴラガ)ノイエンは感嘆して言った。


「あの方はまったく尋常の人(ドゥリ・イン・クウン)ではありませんな。ベルダイの下層に不穏な空気が流れ、軍師殿もおおいに警戒していた様子でした。にもかかわらず我々の招待に快く応じ、かつ兵も連れずに少数の従者(コトチン)だけを伴ってやってきました。これを見て、下々のもの(カラチュス)もその度量におおいに感じ入ったに違いありません。古言に謂う『赤心(フラアン・セトゲル)を推して腹中に置く』とはまさにこのことでしょう」


 また別のところで語ったところでは、


「我が族長(ノヤン)たるトシ様もまた英明な方だ。インジャ様の信頼(イトゥゲルテン)が堅固であることを信じて疑わなかったから、かかる演出ができたのだ」


 これを伝え聞いたものは山塞の好漢たちの絆を改めて感じ、さらにインジャへの忠心を厚くした。以後、インジャは「義君」の称に加えて、「赤心王(フラアン・セトゲル)」と敬称されることになったが、この話はここまでにする。




 白い冬(ツェゲン・オブル)(ようや)く去り、草原(ケエル)にまた(ノゴーン)の季節がやってきた。諸部族(ヤスタン)は伸びやかな気概を胸に冬営(オブルジャー)を出て、広くアイルを展開した。痩せ細った家畜(アドオスン)も、燦々と注ぐ陽光の下で青い(ウヴス)()む。


 インジャとその黄金の僚友(アルタン・ネケル)も存分に(ハバル)の訪れを喜んだ。広い(ハブタガイ・)平原(タル・ノタグ)で春を迎えるのは久しぶりのことである。


 その間、家畜や人衆(ウルス)ともに減ることなく過ごしえたのは、もちろんハツチやトシロルの手腕(アルガ)もあったが、やはりインジャの徳の賜物(アブリガ)であった。好漢たちは山塞での苦労を想起して、みなテンゲリに、そしてインジャに感謝するのであった。


 フドウのアイルでは、クリルタイを間近に控えて慌ただしい日が続いていた。実務に携わっているのは、サノウ、セイネン、ハツチらである。またベルダイからもサイドゥが来て、これを(たす)けた。


 遺漏がないかと(テリウ)を悩ませながら駆け回る彼らを、(ザウタイ)を持て余しているチルゲイなどはおもしろそうに眺めている。あるとき、ハツチが苦情を呈して言うには、


「チルゲイ、することがないなら何か手伝わぬか」


「ははは、よそものの(ガル)を借りるのは本意ではなかろうと気を(つか)っているのではないか。なあ、ミヤーン」


 呼びかけられたミヤーンは、またかという顔つきで答えない。ハツチが尋ねて、


「いったいお主らはいつまでここにいるつもりかね」


「クリルタイなるものを私は見たことがない。それが終わったら西原へ帰るさ。旅の最後に相応しかろう」


 ハツチはきょとんとして言った。


「マシゲルでギィ殿の即位を見たのではないのか?」


「ギィは確かにハーンとなったが、クリルタイを開かなかったのだ。彼は実を重んじ形を軽んずる(チナル)ゆえ、そんな礼式を廃したのだろう。また当時のマシゲルは、そんな悠長なことをしている余裕はなかった」


 これを聞いてハツチは黙り込む。チルゲイは笑って、


「それに比べたらジョルチは堂々と大族の復興を宣言できるのだから、欣快、欣快。後学のためにしかと見聞させてもらうぞ。いずれそれが西原で活きるだろう」


 ハツチはその言葉に首を捻ったが、意を問う前にチルゲイは飄々然としてどこかへ去ってしまった。


 一方、ナユテはチルゲイらと離れてジョルチに留まるつもりであった。インジャはおおいに喜んで、盛大に宴を開いてこれを歓迎した。かくして神道子ナユテは、正式に好漢の列に連なることになった。

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