第五 八回 ①
トシ・チノ巧みに衆を駆りて赤誠を主に示し
インジャ遂に壇を築きて即位を天に告ぐ
さて、インジャはサノウの不安を退けてベルダイに遊んだが、何とトシ・チノは精鋭数千騎を並べてこれを出迎えた。天幕に案内されて宴が始まったものの、疑心を拭えないサノウは、杯に口も付けない。
やがてカトラ、タミチの双璧による剣舞の披露に及び、アネクが美声をもって唱和したが、サノウはいよいよ辛抱できずに声を震わせて言うには、
「トシ殿! いったいこれは何の騒ぎか。インジャ様の身を傷つけてからでは過ちではすまされぬぞ! 二将も剣を収めよ!」
座は一瞬に静まりかえり、誰もが呆然とこれを見つめる。インジャが真っ先に我に返ると、目を瞋らせて怒鳴りつけた。
「軍師! 座興の最中に大声を放つとは失礼ではないか」
サノウははっとして平伏すると、額に汗を浮かべて、
「申し訳ありません。双璧の剣がインジャ様の身に達しそうに見えたので、つい取り乱しました」
インジャは口調を和らげて言った。
「かの双璧がしくじることがあろうか。その剣舞は山塞でも宴の華であったのを忘れたか。思えばかつての苦労を忍びえたのも、ベルダイの兄弟があったからだ。双璧もアネクも宴に興を添えること格別であった。それが一旦戦場に出れば鬼神も恐れるはたらき。まったくジョルチの統一を見たのは、ベルダイ氏の尽力があったればこそだ」
向き直ってトシらに言うには、
「楽しむべき宴に水を差してしまって申し訳ない。軍師は疲れているのだ」
トシ・チノは頷くと、アネク、カトラ、タミチの三人を退かせた。アネクは漸く歌を中断された怨みが募ってきて、去り際にサノウをきっと睨みつける。それを見たチルゲイが声を挙げて、
「ややや、アネク殿も行ってしまうんですか!? いやはや、『月、雲に隠れる』とはこのことだ!」
ジュゾウとナユテがこれを聞いて大笑い。サノウは相変わらず険しい顔をしていたが、ハツチがその袖を引くと言うには、
「こら、そんな顔をするものではない。飲め、飲め。場の空気を読まぬか。君は戦については先知の才を有するが、宴席の礼には疎いのう」
それを聞きつけたセイネンが、
「美髯公、助言するなら聞こえぬようにしろ。小声のつもりでもみなの耳に轟いておるぞ。それでは意味がない」
おどけた調子で揶揄ったので、ハツチは途端に渋い顔。それがまた満座の笑いを誘う。
漸くもとの宴に戻ったので、インジャは満足げにこれを眺める。トシ・チノと目が合ったので互いに笑みを交わす。と、トシは笑みを収めて立ち上がり、卒かに拝礼して言うには、
「義兄上にご覧に入れたいものがございます」
「どうした、急に改まって」
「こちらへ。さあ、みなも参れ」
そしてサノウを顧みて言った。
「軍師、貴公が何を思っているかは存ぜぬが、ともにご覧あれ」
促されて一同は首を傾げながらぞろぞろと天幕を出る。そこには相変わらず数千機が轡を並べている。トシは先頭に立って、正面に築かれている壇に向かった。そしてインジャに言うには、
「義兄上、壇上へお上がりください」
二人ともに壇に上ると、トシ・チノが両手を広げて叫んだ。
「諸君! 我が部族は、三十年の愚かな内紛に終わりを告げ、やっと英主を戴くことがかなった。ここにあるインジャ様は仁義を重んじ、人衆を安んじるまことの英雄であるぞ! 来たるべき吉日にハーンとなられるが、私とともにこれを祝い、翼けるものは、馬を降りて跪拝せよ! 異議あるものは馬上に残れ!」
その言葉に応じてベルダイ軍がどうしたかといえば、一斉に地に降り立ち、腰から剣を外して平伏したのである。
見れば随所にアネク、カトラ、タミチ、ナハンコルジらがあって範を示していた。数瞬後には馬上にあるものはなくなった。トシは満足して微笑むと、
「諸君、これは厳正なる誓いだ! 上は天王様に誓い、下は草原の民の誇りに誓ったのだ。もしこれに背くものがあらば、このトシ・チノがエトゥゲンの果てまでも追って伐つであろう! テンゲリが必ずその家を亡ぼすであろう!」
そして向き直ると、インジャに拝礼して、
「ベルダイの兵は義兄上のためなら水火も辞しませぬ。ハーンの翼たる精鋭を、とくとご覧ください」




