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草原演義  作者: 秋田大介
巻四
227/785

第五 七回 ③

サノウ友邦を探りて(ようや)く疑心を募らせ

アネク美声を(あらわ)して(もっ)て剣舞に和す

 さて、ジュゾウはカトラのゲルに泊まりながら、間諜を用いてベルダイのアイルを探った。驚くべきことにインジャの即位に疑義を抱くものは予想外に多かった。


 といっても実際にこれを阻止しようとか、トシ・チノを推戴して叛旗を(ひるがえ)そうなどといった不穏な動きは見当たらず、単にハーンの位がほかの氏族(オノル)(うつ)るのを悔しがっているだけに思えた。


 問題はトシ・チノ自身の態度であった。族長(ノヤン)であるトシが、そういう空気に気づいていないはずはないのに、彼はそれを放置して戒める様子がない。ジュゾウは思うに、


「ははあ、これでは軍師はますますトシの兄貴を疑うだろう。でもトシ兄のことだ、何か考えがあるに違いない。俺は軍師と違って、生来(オナガン)人を疑う(たち)にできてないからな」


 カトラやタミチなど諸将にも接したが、誰もその話題には触れなかった。単に気づいていないのか、それとも何か言い含められているのか、それも判然としない。やむなく一旦サノウの判断を仰ぐために戻った。


 サノウは一連の報告を受けると、憂え顔で言った。


「トシ・チノの心中が読めぬ。もうしばらく様子を見るほかあるまい。何かあるとしても(ハバル)になってからだろう」


「軍師は何かあると思うんですかい?」


「判らぬ。だが備えがあれば、危急の際にあわてずにすむ」


 ジュゾウが(アマン)を尖らせて、何か言い返そうとしたときである。サノウが(にわ)かにあっと(ダウン)を挙げた。その視線を辿って振り返れば、何とインジャが立っている。


「インジャ様……」


「おお、飛生鼠。軍師と二人で何の相談だ」


 問いかけられて途端に答えに窮する。インジャは微笑しながら言った。


「軍師、最近様子がおかしいぞ。心中憂えていることがあるのではないか。ときどきこうしてジュゾウやその部下たちと密談しているが、そのあとが特に酷い。何かあったのか?」


 サノウはインジャの慧眼に内心驚嘆しつつ、


いえ(ブルウ)、何もありません」


 やっとのことでそう答える。インジャは悲しげな表情で言った。


「軍師、私は徳薄く才なき小人だが、なぜかこうして兄弟たちの上席を汚している。軍師は常々もっと主君(エヂェン)としての自覚を持てと言うが、私と兄弟たちとどれだけの違いがあろう。山塞で苦楽をともにしたという点では同じ(アディル)ではないか。憂うべきことがあれば独りで憂えてはいけない」


「しかしインジャ様の(セトゲル)(わずら)わせるようなことでは……」


 中途で遮って言うには、


「軍師、君は楽しみはともに楽しんでよいが、憂いは分かち合うなと言うのか。それが君の考える主君というものなら、私は上席にあることを望まない。もとより分不相応な席、立つことに何の躊躇があろう」


 ジュゾウはここに至って、あわてて声を挙げると言った。


「お待ちください、インジャ様。実は……」


 止める間もなく一切を打ち明けてしまう。インジャはみるみる青ざめると、


(ウネン)か」


 サノウは横目でジュゾウを睨みつけると、溜息を()いて言った。


「真でございます。ベルダイに不穏分子があるようです」


 インジャは声を失ったまま。サノウは続けて、


「秘していたことにつきましてはお詫びいたします。引き続きトシ・チノの周辺を探り、その本心(カダガトゥ)あるところを(しら)べて……」


 するとインジャは、はっとして強い口調で言うには、


「ならぬ! 何を言っているのか解っているのか。山塞での三年間をもう忘れた(ウマルタヂュ)か。我々の結束(ヂャンギ)はその程度のものだったのか。道理(ヨス)の判らぬ小者(カラチュス)のうちには(さえず)るものもあろう。しかし群雀(トゥヤル)にテンゲリを翔ける大鵬(ハンガルディ)(オロ)が解ろうか。軍師ほどの男が群雀の徒に惑わされてはいけない」


「しかし……」


 インジャはなおもこれを制して、


「人を疑えば必ずこれに疑われると聞いている。たとえ君が疑っていないと言っても、それに準ずる行動をとれば相手はどう考えよう。疑心は疑心を誘い、暗鬼を生む。暗鬼は善人を駆って悪事に走らせる。すでに人を疑う時世は去った。いや(ブルウ)、去らしめなければならぬ。それなのに軍師自らが人を疑うことを(サイン)とするようでは、いつになっても乱は終わらぬ。軍師、察せよ」


 傍ら(デルゲ)のジュゾウはおおいに心を動かされて何度も頷く。サノウもまた不承不承ながら従ったのでインジャは安堵したが、この話もここまでとする。




 それからは表向き何ごともなく(ウドゥル)が過ぎ、(ヂル)が明けた。竜の年(注1)である。すなわちインジャが生まれてから三度目の竜の年が(めぐ)ってきたのである。


 サノウはいまだに東方を気にしていたが、ジュゾウがもはやベルダイを探るのを(がえ)んじなかったため、ズレベン台地の三将に野盗(ヂェテ)警戒の名目で備えを命じただけであった。


 一方のベルダイでもノイエンが独り気を揉むばかりで、トシ・チノ以下諸将は依然沈黙を保っていた。


 そうこうするうちについにクリルタイ開催の日が決定され、ジョルチの諸氏族(オノル)およびタロト部に通達された。これは客将である神道子ナユテの占卜によって吉日が選ばれたものである。


 それを受けて各処より使者が送られてきたが、ベルダイ氏からはナハンコルジがやってきて言った。


「クリルタイの前に、トシ・チノ自ら前祝いを差し上げたいと申しておりますが、いかがでしょうか」


 サノウは、はっとして(ニドゥ)(みは)る。注意を(うなが)そうと目で合図を送ったが、当のインジャはそれを受け流して、


「ベルダイの兄弟たちともしばらく会っていない。ありがたくお受けすると伝えてくれ」


 いささかの躊躇もなく即答してしまった。


「それでは十日後にお越しください。(バルアナチャ)を挙げて歓待いたします」


「楽しみにしているぞ」


 ナハンコルジは拱手してその場を辞した。サノウは彼が去るやインジャに詰め寄って言った。


「まことにベルダイの招待を受けるおつもりですか」


「なぜだ? 断る理由があろうか」


「しかし……」


 インジャは途端に厳しい(ヌル)で言った。


「君はまだそんなことを言っているのか」


「では、キャラハンおよびカミタの兵を護衛に……」


 これにインジャは一瞬不快を示したが、やがて笑って、


「兄弟のもとへ行くのに二千もの兵を連れていくものがどこにいる。軍師の心配はまるでテンゲリが落ちるか、エトゥゲンが崩れるかと憂えているようなものだ」


 サノウはさらに口を開きかけたが、インジャの目が怒気を(はら)んでいるのを悟って、何も言えなくなってしまった。

(注1)【竜の年】インジャの生年は西暦1184年。第 一 回①参照。三度目の竜の年は、すなわち西暦1208年となる。

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