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草原演義  作者: 秋田大介
巻四
223/785

第五 六回 ③

ドルベン義君の影を射て闇中に消え

インジャ侍女の言に(さと)りて妻妾を(ゆる)

 サノウが(ヌル)を上げて言うには、


「心配ない。気絶しているだけだ」


 みな安堵の息を漏らす。サノウはインジャを揺すって(ニドゥ)を覚まさせた。(ようや)く正気に返ると、辺りを見回して言った。


「ああ、軍師。心配をかけた」


「どうされましたか」


 (テリウ)を振りつつ答えて、


「何ものかに射られたようだが、兜に()たって(アミン)を拾ったらしい」


 見ればその朱塗りの兜の中央(オルゴル)が窪んでいる。トシロルが(やじり)の曲がった黒塗りの矢を見つけて騒ぐ。


「これだ! この矢が()たったんだ!」


 覗き込んであれこれ観ていると、矢に文字(ウセグ)が彫り込んであるのを見つけた。トシロルはあっと(ダウン)を挙げて、


「これは『四頭豹』! この矢はドルベンが射たんだ(ハルワフ)!」


 それを聞いて誰もがぎりぎりと歯噛みする。タンヤンは激昂(デクデグセン)して、


「おのれ、四頭豹め! この(ガル)で八つ裂きにしてくれよう!」


 囂々(ごうごう)と巻き起こる怒号と喧騒をよそに、サノウはインジャに尋ねた。


「ほかにお怪我は?」


「衝撃で(マグナイ)を切ったようだ。あとは落馬の際に腰を打ったが、大事ない。それにしても(あや)ういところであった」


天王(フルムスタ)様のご加護でしょう」


 インジャは頷くと、テンゲリに拝謝した。そしてみなが見守る中、ゆっくりと立ち上がって再び馬上の人となる。そして言うには、


「私はこのとおり無事だ。さあ、もうひと息だぞ!」


 兵衆は誰もが主君(エヂェン)姿(カラア)を見て、雄心(ヂルケ)を掻き立てられた。士気は鼓舞され、さらなる勢いで小ジョンシ軍に襲いかかる。ほどなく残敵は掃討され、山塞軍は堂々と入城した。そろそろと空が白みはじめている。


 東門、北門でも戦闘(カドクルドゥアン)は収束し、(ナラン)が昇るころにはインジャは諸将と兵を併せた。好漢(エレ)たちの顔は上気して、誰もが祝辞(ウチウリ)を交わし合って戦勝を喜ぶ。


 インジャは中央の広場に本営(ゴル)を置いて、戦後処理を行った。そこにはナオル、チルゲイ、オノチ、ジュゾウの姿(カラア)もある。


 フーチー老をはじめとする長老(モル・ベキ)たちは、謁見を求めると平身低頭、繰り返しインジャを讃えた。インジャはあわててその顔を上げさせると、


「すべては諸将の功績です。やむをえず城壁(ヘレム)を破壊してしまいましたが、これは我が軍の手で修繕してお返しします」


 長老たちは涙を流して喜ぶと言うには、


「我らは久しく英主を待ち望んでおりました。インジャ様こそまことの英雄です。願わくば(バリク)に留まって、末永く我らをお守りください」


「フーチー殿、それはかなわぬ願いですぞ」


 そう言ったのはエジシである。フーチーは顔を上げると喜色を浮かべて言った。


「おお、エジシ。心配していたぞ。それはそうと、いかなる事由でそう言うのだ」


「まあ、フーチー殿の言われることもよく解る。私とてそれがかなえばと思うが、インジャ様にはタムヤだけでは小さい。インジャ様は広く草原(ミノウル)を統べるべき人。それでこそまことの英雄というものです」


 インジャはあわてて、


いや(ブルウ)、私はそれほどの人物ではありません。タムヤのことも、私より優れた方が大勢おいでですから」


 エジシは莞爾として言った。


「ご安心を。インジャ様をタムヤのような小さな(バリク)に縛ることはいたしません。存分に草原(ケエル)を駆けられよ。今や小ジョンシも滅ぼして、ジョルチ部の統一を成し遂げられたのですから」


 その言葉(ウゲ)に将兵はわっと歓声を挙げる。立ち上がるもの、泣きだすもの、みな興奮して座は騒然となる。インジャは微笑みつつ言った。


「ともかくタムヤの防備に関しては、一考しておきますのでご安心ください」


 長老たちは盛んに拝謝しながら退出した。


 代わって連れてこられたのは、小ジョンシの首魁ウルゲンであった。途端にインジャの表情は険しくなる。


 ウルゲンは四頭豹の献言に(したが)って東門からの脱出を図ったが、そこはすでにセイネンの軍勢に制されていた。うろうろしているところをタムヤの人衆(イルゲン)に捕まって突き出されたのである。


 四頭豹に謀られたと気づいたのはそのあとのこと。ウルゲンは人衆に散々に暴行されたようで、顔中を腫れ上がらせていた。インジャはこれを睨み据えて静か(ヌタ)に、しかし強い口調で言った。


「何か言うことはあるか」


 応じてウルゲンがどうしたかといえば、わっと(コセル)に伏して、命乞いを始めたのである。インジャは(フムスグ)(ひそ)めて不快を(あらわ)にすると、


「お前は人衆(ウルス)が強く乱世の終息を望んでいるのにもかかわらず、乱を好み、(バルアナチャ)を集めて暴虐の限りを尽くした。これが罪の(ネグ)だ。火災こそ草原の民がもっとも恐るべきところであることを知りながら、連丘に(ガル)を放って(かえり)みなかった。これが罪の(ホイル)だ。ジョルチ部と無関係のタムヤを襲い、無辜(むこ)の住民から搾取してその命を奪った。これが罪の(ゴルバン)だ。そしてテンゲリを恐れずエトゥゲンを侮り、大罪を犯しながら保身に(オロ)を砕き、恥もなく助命を乞う。これが罪の(ドルベン)だ。これだけの罪を犯して、なお言うことがあるか!」


 ウルゲンはがっくりとうなだれると、おとなしくなった。


斬首せよ(オンラヂドクン)


 インジャは言い放って(アマン)を閉じた。刑吏がウルゲンを立たせる。そこでナオルと偶々(たまたま)目が合った。何か言おうとしかけたが、諦めたように首を振ると、おぼつかない足取りで去った。ナオルも目を()らしてこれを無視した。


 続いて(ブスクイ)子ども(クウヘド)の一群が連れてこられた。ウルゲンの妻子である。正妻(アブリン・エメ)はボドンチャルという。二人の男の子を連れている。


 子どもはただならぬ気配に身を固くして(エケ)にしがみついている。ボドンチャルは悄然として裁可を待っている。インジャは口調を(やわ)らげて言うには、


「貴女たちは不幸にして小人の伴侶となったもので、罪過はない。放免するゆえ何処へとも去るがいい」


 するとサノウがたちまち異議を唱えて、


「なりませぬ」


「軍師。……何故だ」


「妻妾は放免してもかまいませんが、その子息については生かしておいてはなりません。男児を残せば必ず将来の禍根となりましょう」

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