第五 三回 ②
エジシ難を逃れて山塞に凶報を齎し
インジャ令を発して堂上に派兵を決す
座はしんと静まりかえった。それを破ったのはタンヤンの悲鳴である。傍らのイエテンがそっと宥める。エジシは顧みて居住まいを正すと、重い口を開いた。
「クウイ殿は、二年ほど前から病に冒されていました。ウリャンハタに占領されたころです。その後、ウリャンハタが撤退したので、この機にタンヤンを呼び戻してはどうかと勧めたところ、彼は私の袖を把んで言いました。『愚息はインジャ様に仕える身。そのインジャ様が難儀しているというのに、独り塞を離れてよい道理があるでしょうか。たかが親の病ぐらいで大義を失わせては、二代に亘って罪を得ることになります。かつてハクヒ様に蒙った恩をいくらかでもお返しするのが唯一の願い、もう二度とそのことは言わないでください』、……そう強く言われてはどうすることもできません。私にできたのは、せめて良医を索め、生計を助けるくらいのものでした」
一旦言葉を切ると、それを機にタンヤンはおいおいと哭きはじめた。居並ぶ好漢も胸を締めつけられる思い。
「しかし、クウイ殿が病で世を去ったならば、まだ天命と諦めることもできたでしょう!」
エジシは急に激昂して叫んだ。見ればその眼には涙が溢れている。みなおおいに驚き、ナオルが堪らず声を発した。
「と言うと、そうではないのですか!?」
「病は徐々に重くなってはいたが、卒かに命を奪うほどでもありませんでした。だからいよいよとなれば、クウイ殿の意思には反するが、タンヤンを呼び戻そうと思っていたのです」
そこでふううと長嘆息したエジシは、ひと息に語りはじめた。
「ところが、つい先日のこと。あの悪鬼のごとき一軍がタムヤを襲ったのです! 彼らは瞬く間に街を制圧すると、自治に携わっていたものを片端から捕らえはじめました。非才ながら私も名を連ねていたために追われることとなりました。私はこれも運命と諦めていたのですが、驚いたことにクウイ殿が病を顧みずにやってきて、私を強引に車に乗せると、城門指して一散に駆け出したのです」
「何と……」
呟いたのは誰であったか。エジシの話は続いて、
「私は声を限りに思い止まらせようとしたのですが、まるで耳を有たぬかのようで、病人とは思えぬ力を発揮して門を突破しました。しかし車では騎兵の足に敵うわけもなく、すぐに捕吏があとを追ってきました。そのとき初めてクウイ殿が振り返って言ったのです。『先生はインジャ様に必要な方です。私が奴らを引きつけてる間に山塞へお逃げください。この馬に騎って、さあ、疾く!』と」
好漢たちはもはや声も出ない。
「断りましたがクウイ殿は許さず、『タンヤンに会ったら、伝えてください。お前の父はかつては法を犯した罪人だったが、最期まで草原の民の誇りを失わなかった。最期は忠良な臣であったと』とて馬を放ち、自らは弓を手にして大地に降り立ちました」
エジシは辛そうに顔を歪めたが、何とか続けて、
「私が逡巡していると烈火のごとく怒りだして、『早く行かないか! 死ぬのは一人でよい。俺は先生と死ぬために来たのではない、先生を生かすために来たのだ! 俺の志を、最後のはたらきを無にしないでくれ!』。……その言葉に一片の私情もないことを悟り、また決意が固いことを知って、私は、馬に鞭を……」
「…………」
「しばらく駆けたところで恐る恐る振り返ると、クウイ殿が、たった独りで十人以上の騎兵と戦っているのが見えました。しかし、しかし、やがて……」
この顛末に口を挟めるものはなかった。エジシは言葉が続かなくなって、ついに顔を掩う。そして突然平伏すると、地に額を叩きつけて、
「タンヤン、すまぬ! お前の父は私を、こんな私を助けるために寿命を縮めたのだ!」
一同は寂として声もなかった。しばらくエジシの嗚咽ばかりが響いていたが、やがてタンヤンが口を開いた。
「先生、顔を上げてください。先生らしくありません。たしかに父が死んだのは悲しいが、最後はフドウの武人として死ねたのです。病床で果てるよりどれだけ喜んだか。しかもインジャ様のお役に立てたのです。これほどに誇らしい、幸せな最期がほかにあったでしょうか。先生、どうか顔を上げて。そんなに自分を責めては、まるで父が悪いことをしたみたいだ」
エジシはゆっくりと頭を上げたが、肩を震わせながら、
「お前は私を恕すと言うのか。お前に打ち殺されてもやむをえないと思っていたのに……」
「どうして父が命を賭して救った先生を、俺が打ち殺さなきゃいけないんですか。おかしなことを言わないでください」
そう言いながら滂沱と涙を流す。インジャは呆然としていたが、卒かに悲鳴を挙げると、
「ああ、私のせいだ! 私が至らぬせいでクウイまで……。タンヤンにどうやって詫びればよいのだ!」
みるみる青ざめると、あっと思う間もなく卒倒してしまった。隣にいたナオルがこれを抱き起こす。キノフがさっと立ち上がって脈を取ったり熱を測ったり、あれこれと検べる。座は騒然となり、上を下への大騒ぎ。
それを見たムウチも血の気を失って思わず片手を突き、周囲をあわてさせる。幸い意識はしっかりしていたので、アネクとシズハンが付き添って奥座へ退いた。




