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草原演義  作者: 秋田大介
巻四
210/785

第五 三回 ②

エジシ難を逃れて山塞に凶報を(もたら)

インジャ令を発して堂上に派兵を決す

 座はしんと静まりかえった。それを破ったのはタンヤンの悲鳴である。傍ら(デルゲ)のイエテンがそっと(なだ)める。エジシは顧みて居住まいを正すと、重い(アマン)を開いた。


「クウイ殿は、二年ほど前から病に(おか)されていました。ウリャンハタに占領されたころです。その後、ウリャンハタが撤退したので、この機にタンヤンを呼び戻してはどうかと勧めたところ、彼は私の(カンチュ)(つか)んで言いました。『愚息はインジャ様に仕える身。そのインジャ様が難儀しているというのに、独り塞を離れてよい道理(ヨス)があるでしょうか。たかが親の病ぐらいで大義を失わせては、二代に(わた)って罪を得ることになります。かつてハクヒ様に(こうむ)った恩をいくらかでもお返しするのが唯一(ガグチャ)の願い、もう二度とそのことは言わないでください』、……そう強く言われてはどうすることもできません。私にできたのは、せめて良医を(もと)め、生計を助けるくらいのものでした」


 一旦言葉(ウゲ)を切ると、それを機にタンヤンはおいおいと()きはじめた。居並ぶ好漢(エレ)(オモリウド)を締めつけられる思い。


「しかし、クウイ殿が病で世を去ったならば、まだ天命(ヂヤー)と諦めることもできたでしょう!」


 エジシは急に激昂(デクデグセン)して叫んだ。見ればその(ニドゥ)には涙が溢れている。みなおおいに驚き、ナオルが(たま)らず(ダウン)を発した。


「と言うと、そうではないのですか!?」


「病は徐々に重くなってはいたが、(にわ)かに(アミン)を奪うほどでもありませんでした。だからいよいよとなれば、クウイ殿の意思(オロ)には反するが、タンヤンを呼び戻そうと思っていたのです」


 そこでふううと長嘆息したエジシは、ひと息に語りはじめた。


「ところが、つい先日のこと。あの悪鬼(チュトグル)のごとき一軍がタムヤを襲ったのです! 彼らは瞬く間(トゥルバス)(バリク)を制圧すると、自治に携わっていたものを片端から捕らえはじめました。非才ながら私も名を連ねていたために追われることとなりました。私はこれも運命と諦めていたのですが、驚いたことにクウイ殿が病を顧みずにやってきて、私を強引に(テルゲン)に乗せると、城門(エウデン)指して一散に駆け出したのです」


「何と……」


 呟いたのは誰であったか。エジシの話は続いて、


「私は声を限りに思い止まらせようとしたのですが、まるで(チフ)()たぬかのようで、病人とは思えぬ(クチ)を発揮して門を突破しました。しかし車では騎兵の足に(かな)うわけもなく、すぐに捕吏があとを追ってきました。そのとき初めてクウイ殿が振り返って言ったのです。『先生はインジャ様に必要(ヘレグテイ)な方です。私が奴らを引きつけてる間に山塞へお逃げください。この(アクタ)()って、さあ、疾く!』と」


 好漢たちはもはや声も出ない。


「断りましたがクウイ殿は許さず、『タンヤンに会ったら、伝えてください。お前の(エチゲ)はかつては(ヂャサ)を犯した罪人だったが、最期まで草原(ケエル)(ウルス)の誇りを失わなかった。最期は忠良(シドゥルグ)な臣であったと』とて馬を放ち、自らは弓を(ガル)にして大地(コセル)に降り立ちました」


 エジシは辛そうに(ヌル)(ゆが)めたが、何とか続けて、


「私が逡巡していると烈火(ガルチュ)のごとく怒りだして、『早く行かないか! 死ぬのは一人でよい。俺は先生と死ぬために来たのではない、先生を生かすために来たのだ! 俺の(オロ)を、最後のはたらきを無にしないでくれ!』。……その言葉に一片の私情もないことを悟り、また決意が固いことを知って、私は、馬に(タショウル)を……」


「…………」


「しばらく駆けたところで恐る恐る振り返ると、クウイ殿が、たった独りで十人(アルバン)以上の騎兵と戦っているのが見えました。しかし、しかし、やがて……」


 この顛末(ヨス)に口を挟めるものはなかった。エジシは言葉が続かなくなって、ついに顔を(おお)う。そして突然平伏すると、地に(マグナイ)を叩きつけて、


「タンヤン、すまぬ! お前の父は私を、こんな私を助けるために寿命を縮めたのだ!」


 一同は(せき)として声もなかった。しばらくエジシの嗚咽(おえつ)ばかりが響いていたが、やがてタンヤンが口を開いた。


「先生、顔を上げてください。先生らしくありません。たしかに父が死んだのは悲しいが、最後はフドウの武人として死ねたのです。病床で果てるよりどれだけ喜んだか。しかもインジャ様のお役に立てたのです。これほどに誇らしい、幸せ(クトゥクタイ)な最期がほかにあったでしょうか。先生、どうか顔を上げて。そんなに自分を責めては、まるで父が悪いことをしたみたいだ」


 エジシはゆっくりと(テリウ)を上げたが、(ムル)を震わせながら、


「お前は私を(ゆる)すと言うのか。お前に打ち殺されてもやむをえないと思っていたのに……」


「どうして父が命を賭して救った先生を、俺が打ち殺さなきゃいけないんですか。おかしなことを言わないでください」


 そう言いながら滂沱(ぼうだ)と涙を流す。インジャは呆然としていたが、(にわ)かに悲鳴を挙げると、


「ああ、私のせいだ! 私が至らぬせいでクウイまで……。タンヤンにどうやって詫びればよいのだ!」


 みるみる青ざめると、あっと思う間もなく卒倒してしまった。(サーハルト)にいたナオルがこれを抱き起こす。キノフがさっと立ち上がって脈を取ったり熱を測ったり、あれこれと(しら)べる。座は騒然となり、上を下への大騒ぎ。


 それを見たムウチも血の気を失って思わず片手を突き、周囲をあわてさせる。幸い意識はしっかりしていたので、アネクとシズハンが付き添って奥座(コイマル)へ退いた。

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