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草原演義  作者: 秋田大介
巻四
206/785

第五 二回 ② <シズハン登場>

インジャ天に祈りて三軍(ようや)く陥穽を脱し

チルゲイ春に現れて山塞新たな好漢を見る

(クラ)だ! 雨だ!!」


「奇跡だ、奇跡が起こったぞ!」


「テンゲリは、テンゲリは我らを見棄てなかった!」


 みな飢えも疲れも忘れて(ウマルタヂュ)躍り上がった。インジャは信じられない思いで立ち尽くしていたが、そこへ「黄金の僚友(アルタン・ネケル)」たちが駈け寄った。


「義兄上!」


 呼びかければ初めてインジャの(ヌル)に笑みが(こぼ)れた。俄かに現れた厚い雲(ゾザーン・エウレン)が頭上を覆い、ぽつぽつと降りはじめた雨は次第に強くなった。


 やがて豪雨となれば、周囲からじゅうじゅうと凄まじい音が沸きあがる。灰白色の濃煙はみるみる小さくなり、代わって白い蒸気が辺りを満たす。四方十里に(わた)って一斉に白煙が立つ光景は、奇蹟以外の何ものでもなかった。


 みなわあわあと歓呼の(ダウン)を挙げながらテンゲリに向かって(アマン)を開け、久しぶりに(アクタ)(ツォサン)以外のもので(ホオライ)を湿らせた。


「この季節にまさかこんな雨が降ろうとは、まさに天佑。兄弟よ、テンゲリに拝謝しようではないか!」


 マタージが叫んだ。みな喜んで(したが)うと、祭壇(シトゥエン)の前にずらりと並んで慈雨に感謝した。


 雨はひと晩中降り続け、あれだけ燃え盛っていた(ガルチュ)もすっかり白い蒸気と化してテンゲリに消えた(ブレルテレ)。周辺からは朝までじゅうじゅうという音が絶えなかったが、それを心地好く聞かないものはなかった。


 翌朝、山塞軍は雨ですっかり洗われた大道(テルゲウル)に馬を進めた。方々にまだ火災の痕が(くすぶ)っていたが、進軍に(さわ)るほどではなかった。人馬ともに疲弊(ハウタル)の極にあったが、士気は軒昂であった。自ずと兵の間からは(ドー)が流れ、好漢(エレ)たちも陽気に唱和した。


 しかしあれだけ望んでいた連丘の出口が近づくにつれて、みなの気は徐々に重くなっていった。というのも、多くのものが煙焔(えんえん)から逃れられず死んでいったことを想起したからである。


 好漢たちもいまだ生死の知れぬマジカンを思って(ニドゥ)を伏せた。中でも実弟(デウ)のマタージはがっくりとうなだれている。インジャも一面の惨状を()の当たりにして沈み込む。外に逃れたのでなければ、とても助かっているとは思えない。


 一縷(いちる)の望みを託しつつ、ついに連丘を脱する。インジャは(はや)(オロ)を抑えて、一旦軍を留めた。下山当時の面影はなく、疲弊しきった人馬の群れがあるばかり。


 マジカンは結局現れることはなかった。


 小休止ののち、インジャはオロンテンゲルの山塞目指して出立した。この疲れを癒すべきところはほかになかった。三万余の軍勢は、声もなくとぼとぼと歩み続けた。と、彼方から多数の人馬が駆け(きた)たるのが見えた。


「敵襲か!?」


 諸将は青ざめて、それでも何とか戦陣(バイダル)を形成した。数こそ三万とはいえ、今はいかなる小敵も撃ち破れぬことは誰もが承知していた。そもそもインジャ自身が過労のために今にも倒れそうだった。騎兵はどんどん接近(カルク)する。と、前方の兵衆から(にわ)かに歓声が挙がる。


「何ごとだ!?」


 みな事態が呑み込めずに(フムスグ)(ひそ)める。そこへ前軍(アルギンチ)からナハンコルジが駆けてきて、喜色満面で言うには、


「山塞からの応援です! (トグ)はイタノウとアイヅムのものです!」


 インジャらは(オモリウド)を撫で下ろし、互いに顔を見合わせて笑い交わす。待っているとマルケとコニバンがやってきた。インジャは笑顔でこれを迎える。


「メルヒル・ブカが大火と聞いて、案じておりました。ご無事な姿(カラア)を拝見して、こんなに嬉しいことはありません」


 マルケが言うので、頷いて答えて、


「私も嬉しいぞ。一時は死を決意したが、天王(フルムスタ)様の慈悲に救われた。再び相見(あいまみ)えることができて、まことに良かった」


糧食(イヂェ)(エム)を運んでまいりました。今日は野営して、まずはゆっくりと休んでください。私とコニバンが守りましょう」


「それはありがたい。よくぞ迎えに来てくれた。礼を言うぞ」


「実は我が氏族(オノル)によく気が()くものがいて、インジャ様を迎えにいくよう進言してくれたのです」


 そう言って招き寄せた(ダルバアン・ウリャア)のは何と一人の(オキン)。その人となりはと云えば、


 身の丈は六尺半、それ白面にして皓歯、蛾眉()え、柔和な面貌、しかして智慧よく(めぐ)り、感性また鋭き、端倪(たんげい)(注1)すべからざる乙女。その白皙(はくせき)(注2)とその叡智を尊んで人は呼ぶ、「小白圭(小さく白い清らかな玉の意)」と。


 娘は揖拝(ゆうはい)して名乗った。


「お初にお目にかかります。シズハンと申します。以後お見知りおきを」


「おお、貴女のおかげで、我が軍は漠土(エレド)(オス)を得た心地だ。ありがとう(バヤルララ)


 シズハンはそっと一礼して微笑む。かくして運ばれてきた糧食が行きわたり、みな久々に空腹を満たした。またアネクらには薬が与えられた。マルケとコニバンは交替で陣営(トイ)を警護したが、何ごともなく朝になった。


 多少の活気を復したので、一路山塞へと向かう。ことがあれば話は長くなり、なければ短くなるものだが、道中は格別のこともなく揃って帰ることができた。


 ムウチはインジャの身を人一倍案じていたので、その姿を見ると立ち上がって駈け寄り、無事を喜んだ。それから将兵は身体を休めることに専心した。とても草原(ケエル)に兵を展開する余裕はなかった。

(注1)【端倪(たんげい)】ものごとの初めと終わり。また、ことの始終を推し測ること。あらかじめ予想すること。推測。


(注2)【白皙(はくせき)】肌の色が白いこと。

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