第五 二回 ② <シズハン登場>
インジャ天に祈りて三軍漸く陥穽を脱し
チルゲイ春に現れて山塞新たな好漢を見る
「雨だ! 雨だ!!」
「奇跡だ、奇跡が起こったぞ!」
「テンゲリは、テンゲリは我らを見棄てなかった!」
みな飢えも疲れも忘れて躍り上がった。インジャは信じられない思いで立ち尽くしていたが、そこへ「黄金の僚友」たちが駈け寄った。
「義兄上!」
呼びかければ初めてインジャの顔に笑みが零れた。俄かに現れた厚い雲が頭上を覆い、ぽつぽつと降りはじめた雨は次第に強くなった。
やがて豪雨となれば、周囲からじゅうじゅうと凄まじい音が沸きあがる。灰白色の濃煙はみるみる小さくなり、代わって白い蒸気が辺りを満たす。四方十里に亘って一斉に白煙が立つ光景は、奇蹟以外の何ものでもなかった。
みなわあわあと歓呼の声を挙げながらテンゲリに向かって口を開け、久しぶりに馬の血以外のもので喉を湿らせた。
「この季節にまさかこんな雨が降ろうとは、まさに天佑。兄弟よ、テンゲリに拝謝しようではないか!」
マタージが叫んだ。みな喜んで順うと、祭壇の前にずらりと並んで慈雨に感謝した。
雨はひと晩中降り続け、あれだけ燃え盛っていた炎もすっかり白い蒸気と化してテンゲリに消えた。周辺からは朝までじゅうじゅうという音が絶えなかったが、それを心地好く聞かないものはなかった。
翌朝、山塞軍は雨ですっかり洗われた大道に馬を進めた。方々にまだ火災の痕が燻っていたが、進軍に障るほどではなかった。人馬ともに疲弊の極にあったが、士気は軒昂であった。自ずと兵の間からは歌が流れ、好漢たちも陽気に唱和した。
しかしあれだけ望んでいた連丘の出口が近づくにつれて、みなの気は徐々に重くなっていった。というのも、多くのものが煙焔から逃れられず死んでいったことを想起したからである。
好漢たちもいまだ生死の知れぬマジカンを思って目を伏せた。中でも実弟のマタージはがっくりとうなだれている。インジャも一面の惨状を目の当たりにして沈み込む。外に逃れたのでなければ、とても助かっているとは思えない。
一縷の望みを託しつつ、ついに連丘を脱する。インジャは逸る心を抑えて、一旦軍を留めた。下山当時の面影はなく、疲弊しきった人馬の群れがあるばかり。
マジカンは結局現れることはなかった。
小休止ののち、インジャはオロンテンゲルの山塞目指して出立した。この疲れを癒すべきところはほかになかった。三万余の軍勢は、声もなくとぼとぼと歩み続けた。と、彼方から多数の人馬が駆け来たるのが見えた。
「敵襲か!?」
諸将は青ざめて、それでも何とか戦陣を形成した。数こそ三万とはいえ、今はいかなる小敵も撃ち破れぬことは誰もが承知していた。そもそもインジャ自身が過労のために今にも倒れそうだった。騎兵はどんどん接近する。と、前方の兵衆から卒かに歓声が挙がる。
「何ごとだ!?」
みな事態が呑み込めずに眉を顰める。そこへ前軍からナハンコルジが駆けてきて、喜色満面で言うには、
「山塞からの応援です! 旗はイタノウとアイヅムのものです!」
インジャらは胸を撫で下ろし、互いに顔を見合わせて笑い交わす。待っているとマルケとコニバンがやってきた。インジャは笑顔でこれを迎える。
「メルヒル・ブカが大火と聞いて、案じておりました。ご無事な姿を拝見して、こんなに嬉しいことはありません」
マルケが言うので、頷いて答えて、
「私も嬉しいぞ。一時は死を決意したが、天王様の慈悲に救われた。再び相見えることができて、まことに良かった」
「糧食と薬を運んでまいりました。今日は野営して、まずはゆっくりと休んでください。私とコニバンが守りましょう」
「それはありがたい。よくぞ迎えに来てくれた。礼を言うぞ」
「実は我が氏族によく気が利くものがいて、インジャ様を迎えにいくよう進言してくれたのです」
そう言って招き寄せたのは何と一人の娘。その人となりはと云えば、
身の丈は六尺半、それ白面にして皓歯、蛾眉映え、柔和な面貌、しかして智慧よく運り、感性また鋭き、端倪(注1)すべからざる乙女。その白皙(注2)とその叡智を尊んで人は呼ぶ、「小白圭(小さく白い清らかな玉の意)」と。
娘は揖拝して名乗った。
「お初にお目にかかります。シズハンと申します。以後お見知りおきを」
「おお、貴女のおかげで、我が軍は漠土に水を得た心地だ。ありがとう」
シズハンはそっと一礼して微笑む。かくして運ばれてきた糧食が行きわたり、みな久々に空腹を満たした。またアネクらには薬が与えられた。マルケとコニバンは交替で陣営を警護したが、何ごともなく朝になった。
多少の活気を復したので、一路山塞へと向かう。ことがあれば話は長くなり、なければ短くなるものだが、道中は格別のこともなく揃って帰ることができた。
ムウチはインジャの身を人一倍案じていたので、その姿を見ると立ち上がって駈け寄り、無事を喜んだ。それから将兵は身体を休めることに専心した。とても草原に兵を展開する余裕はなかった。
(注1)【端倪】ものごとの初めと終わり。また、ことの始終を推し測ること。あらかじめ予想すること。推測。
(注2)【白皙】肌の色が白いこと。




