第五 二回 ①
インジャ天に祈りて三軍漸く陥穽を脱し
チルゲイ春に現れて山塞新たな好漢を見る
ウルゲン軍の火計によってカオルジに追いつめられた山塞軍は、糧食は乏しく、水すらない窮地に陥ってしまった。冬は目前に迫り、燃え盛る炎を前に連丘を脱出する術もない。インジャは意を決して諸将を集めると言った。
「我らは今、生死の境にいる。このまま座していては死ぬばかりだ。飢えて死ぬか、凍えて死ぬか……。これまで我らは智を尽くし、力を併せて幾多の危難を乗り越えてきたが、この状況ばかりはいかんともしがたい。ここに至ったからには、手はひとつしか残されていないように思う」
諸将は息を呑んで聞き入っている。インジャはやおら立ち上がって、
「そもそも人の生死はテンゲリが定めたものだ。そこで私は天王様に祈ってみようと思う。俚諺にも『人事を尽くして天命を俟つ』と謂う。我らはやれることはすべてやった。命運が尽きてなければ、きっとテンゲリが佑けてくれるだろう。祈って何の徴もなければ、もはやこれまで。テンゲリに見放されたものとして潔く死の旅路へ赴こう」
それを聞いて襟を濡らさぬものはなく、また異議を唱えるものもなかった。インジャは僚友たちの厚情に感謝すると、祭壇を築いて跪き、一心に祈りはじめた。
七日経って何の兆候もないときは、二十余人の好漢とともに自尽するつもりであった。その間、みな交替でインジャと祈りを捧げることにした。それ以外のものは軍紀の紊れを防ぎ、火勢の弱まった箇所がないか探すことを請け負った。
ハツチらは糧食が尽きたので軍馬を潰すことを許し、その数を管理した。潰された馬は上下を問わず公平に分配され、肉はこれを食べ、血はこれを飲み、皮は剥いで防寒に充てた。
インジャは日に一度だけ僅かな食事を口にし、一刻ばかりの睡眠をとるほかはただただ祈り続けた。目の下には青黒い暈ができ、頬は痩削(注1)し、微熱も出はじめていたが、かまうことはなかった。
諸将にも惰眠を貪るようなものは一人もなく、みなこれと労苦をともにした。
しかしテンゲリにはやはり雲ひとつ生じる様子もなく、煙焔は四方で上がり続けていた。脱出する道を探す試みも連日空しく終わるばかり。
三日が経ち、まずハツチが高熱を発して倒れた。次いでタアバが、そしてサノウが起き上がれなくなった。翌日にはアネクとシャジが相次いで臥せった。五日目にはみなの看病に当たっていた天仙娘キノフが力尽きた。
が、テンゲリはいまだ何の徴も見せないまま、誓った日限にあと一日を残すばかりとなった。夜を徹してインジャは祈ったが、無情にも旭日は東の地平にその雄姿を現した。
ジュゾウは倒れたものを看護していたが、それを見て溜息を吐くと言った。
「今日中に奇跡が起こらねば、我らの命運も尽きたということだ」
その声でアネクが目を覚ました。すると弱々しい調子ながら言うには、
「テンゲリは、きっと私たちを見棄てたりしないわ。……夢に天王様の声を聞いたような気がするの」
ジュゾウはそれを聞いてアネクの顔を悲しげに眺めたが、あえて何も言わなかった。おそらく熱に浮かされた彼女には、あの輝く太陽すら見えていないのだろうと思ったからである。
周囲の丘陵からは、相変わらず濃煙が上っている。まだ四方では火神が猛威を奮っていた。何より彼らを落胆させたのは火勢より煙の凄さであった。オノチらが手分けして退路を探ったが、三万の兵衆が通り抜けられる道は皆無だった。
こうしていたずらにときが過ぎていった。絶望が広がっていく中、独りインジャだけは黙々とテンゲリに祈った。
陽が大きく傾くころには、さすがの好漢たちの気力も果てようとしていた。インジャはすっくと立ち上がると、みなを祭壇の前に集めた。疲弊しきった様子だったが、不思議と張りのある声で告げて言うには、
「七日目が終わろうとしている。しかし奇跡は起こりそうもない。ここにいるものは、奇縁の運り合わせで一堂に会した。父を殺されてから、今日まで幾多の戦場をくぐり抜けてきた。それはすべてみなのおかげだ。短い生涯だったが、かくもすばらしい兄弟を得ることができてまことに嬉しく思う。テンゲリは私を見棄てたが、これも我が不徳の致すところであって、決してテンゲリを怨むべきではない。ただ徳薄く才乏しい私のせいで、多くの好漢の命が失われることだけが悔やまれる」
堪えきれずコヤンサンがおいおいと声を挙げて哭きはじめる。ドクト、タンヤンがこれに続く。サノウの目にすらうっすらと涙が滲むころには頬を濡らさぬものとてない。彼らを遠巻きにする兵衆も、拳で地を撃って哭泣する。
陽はついに最後の光を地平に残すだけとなり、辺りは薄暗くなっていく。二十二人の好漢は涙を拭おうともせずに、無言でじっとそれを見ていた。
インジャは顔を上げて、みなの顔を一人一人じっくりと見回してから言った。
「我が『黄金の僚友』よ! テンゲリを怨むなかれ、ただ私をば呪え! この小人にも何か願うことが許されるなら、来世でも諸君と兄弟たることを願おう。乱世ではなく平和な世で再び相見えようぞ!」
と、ちょうどそのときである。
最初に気づいたのはナオルだった。はっとして立ち上がるとテンゲリを仰ぐ。近くにいたドクト、ナハンコルジ、セイネンは驚いてこれを見上げる。
インジャも訝しく思って、その視線の先を辿る。
「お、おお! おおお!」
好漢は次々と立ち上がる。そしてついに兵衆からもうねりのような歓声が巻き起こった。
「あ、ああっ、雨だ!!」
期せずして方々から同じ言葉が放たれる。テンゲリから落ちる滴は、今や誰にでもはっきり感じられるほどになっていた。
(注1)【痩削】痩せこけること。




