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草原演義  作者: 秋田大介
巻四
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第五 二回 ①

インジャ天に祈りて三軍(ようや)く陥穽を脱し

チルゲイ春に現れて山塞新たな好漢を見る

 ウルゲン軍の火計によってカオルジに追いつめられた山塞軍は、糧食(イヂェ)は乏しく、(オス)すらない窮地に(おちい)ってしまった。(オブル)は目前に迫り、燃え盛る(ガルチュ)を前に連丘を脱出する術もない。インジャは(オロ)を決して諸将を集めると言った。


「我らは今、生死の境にいる。このまま座していては死ぬばかりだ。飢えて死ぬか、凍えて死ぬか……。これまで我らは智を尽くし、(クチ)を併せて幾多の危難(アヨール)を乗り越えてきたが、この状況ばかりはいかんともしがたい。ここに至ったからには、手はひとつしか残されていないように思う」


 諸将は息を呑んで聞き入っている。インジャはやおら立ち上がって、


「そもそも人の生死はテンゲリが定めたものだ。そこで私は天王(フルムスタ)様に祈ってみようと思う。俚諺にも『人事を尽くして天命を()つ』と謂う。我らはやれることはすべてやった。命運(ヂヤー)尽きて(エチュルテレ)なければ、きっとテンゲリが(たす)けてくれるだろう。祈って何の(しるし)もなければ、もはやこれまで。テンゲリに見放されたものとして潔く死の旅路へ赴こう」


 それを聞いて(ヂャカ)を濡らさぬものはなく、また異議を唱えるものもなかった。インジャは僚友(ネケル)たちの厚情(エルゲン・セトゲル)に感謝すると、祭壇(シトゥエン)を築いて(ひざまず)き、一心に祈りはじめた。


 七日経って何の兆候(スルデル)もないときは、二十余人の好漢(エレ)とともに自尽するつもりであった。その間、みな交替でインジャと祈りを捧げることにした。それ以外のものは軍紀の(みだ)れを防ぎ、火勢の弱まった箇所がないか探すことを請け負った。


 ハツチらは糧食が尽きたので軍馬(アクタ)を潰すことを許し、その数を管理した。潰された馬は上下を問わず公平に分配され、(マハ)はこれを食べ、(ツォサン)はこれを飲み、皮は()いで防寒に()てた。


 インジャは(ウドゥル)に一度だけ僅かな食事を口にし、一刻ばかりの睡眠をとるほかはただただ祈り続けた。(ニドゥ)の下には青黒い(くま)ができ、(ハツァル)痩削(そうさく)(注1)し、微熱も出はじめていたが、かまうことはなかった。


 諸将にも惰眠を(むさぼ)るようなものは一人もなく、みなこれと労苦をともにした。


 しかしテンゲリにはやはり(エウレン)ひとつ生じる様子もなく、煙焔(えんえん)は四方で上がり続けていた。脱出する(モル)を探す試みも連日空しく終わるばかり。


 三日が経ち、まずハツチが高熱を発して倒れた。次いでタアバが、そしてサノウが起き上がれなくなった。翌日にはアネクとシャジが相次いで()せった。五日目にはみなの看病に当たっていた天仙娘キノフが力尽きた。


 が、テンゲリはいまだ何の(しるし)も見せないまま、誓った日限にあと一日を残すばかりとなった。夜を徹してインジャは祈ったが、無情にも旭日は(ヂェウン)の地平にその雄姿を現した。


 ジュゾウは倒れたものを看護していたが、それを見て溜息を吐くと言った。


「今日中に奇跡が起こらねば、我らの命運も尽きたということだ」


 その(ダウン)でアネクが目を覚ました。すると弱々しい調子ながら言うには、


「テンゲリは、きっと私たちを見棄てたりしないわ。……夢に天王(フルムスタ)様の声を聞いたような気がするの」


 ジュゾウはそれを聞いてアネクの(ヌル)を悲しげに眺めたが、あえて何も言わなかった。おそらく熱に浮かされた彼女には、あの輝く太陽(ナラン)すら見えていないのだろうと思ったからである。


 周囲の丘陵(ウンドゥル)からは、相変わらず濃煙が上っている。まだ四方では火神が猛威を奮っていた。何より彼らを落胆させたのは火勢より煙の凄さであった。オノチらが手分けして退路を探ったが、三万の兵衆が通り抜けられる道は皆無だった。


 こうしていたずらにときが過ぎていった。絶望が広がっていく中、独りインジャだけは黙々とテンゲリに祈った。


 陽が大きく傾くころには、さすがの好漢たちの気力も果てようとしていた。インジャはすっくと立ち上がると、みなを祭壇の前に集めた。疲弊(ハウタル)しきった様子だったが、不思議と張りのある声で告げて言うには、


「七日目が終わろうとしている。しかし奇跡は起こりそうもない。ここにいるものは、奇縁の(めぐ)り合わせで一堂に会した。(エチゲ)を殺されてから、今日まで幾多の戦場をくぐり抜けてきた。それはすべてみなのおかげだ。短い生涯だったが、かくもすばらしい兄弟を得ることができてまことに嬉しく思う。テンゲリは私を見棄てたが、これも我が不徳の致すところであって、決してテンゲリを怨むべきではない。ただ徳薄く才乏しい私のせいで、多くの好漢の(アミン)が失われることだけが悔やまれる」


 (こら)えきれずコヤンサンがおいおいと声を挙げて()きはじめる。ドクト、タンヤンがこれに続く。サノウの目にすらうっすらと涙が(にじ)むころには頬を濡らさぬものとてない。彼らを遠巻きにする兵衆も、拳で(コセル)を撃って哭泣する。


 陽はついに最後の光を地平に残すだけとなり、辺りは薄暗くなっていく。二十二人の好漢は涙を(ぬぐ)おうともせずに、無言でじっとそれを見ていた。


 インジャは顔を上げて、みなの顔を一人一人じっくりと見回してから言った。


「我が『黄金の僚友(アルタン・ネケル)』よ! テンゲリを怨むなかれ、ただ私をば呪え! この小人にも何か願うことが許されるなら、来世でも諸君と兄弟たることを願おう。乱世ではなく平和(ヘンケ)な世で再び相見(あいまみ)えようぞ!」


 と、ちょうどそのときである。


 最初に気づいたのはナオルだった。はっとして立ち上がるとテンゲリを仰ぐ。近くにいたドクト、ナハンコルジ、セイネンは驚いてこれを見上げる。


 インジャも(いぶか)しく思って、その視線の先を辿る。


「お、おお! おおお!」


 好漢は次々と立ち上がる。そしてついに兵衆からもうねりのような歓声が巻き起こった。


「あ、ああっ、(クラ)だ!!」


 期せずして方々から同じ言葉(ウゲ)が放たれる。テンゲリから落ちる(しずく)は、今や誰にでもはっきり感じられるほどになっていた。

(注1)【痩削(そうさく)】痩せこけること。

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