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草原演義  作者: 秋田大介
巻四
204/785

第五 一回 ④

マタージ緑陵の(けん)(はか)りて将兵を分かち

ウルゲン紅蓮の剣を(かざ)して義君を(はし)らす

 しかしマタージはゆっくりと首を振ると、


「ずいぶん前にやってきたハツチですら間一髪だったのです。ここからもっとも遠く(ホル)にいた(アカ)脱出(アンギダ)できたとは思えません。その証左に、兄に急を伝えたジュゾウの部下も戻らぬではありませんか」


 これにはインジャも言葉(ウゲ)に詰まったが、何とか(こら)えて言った。


「ひょっとすると連丘の外に逃れたかもしれぬ。そうだ、きっとそうに違いない。マジカン殿は必ず生きて(オスチュ)いる」


 自身の言葉に励まされて幾度も頷く。しかしマタージは、


「だとよいのですが……」


 そう小さな(ダウン)で答えて、じっと彼方を眺める。


「まだここに(ガル)が達するのは先だ。明日まで待って来なければ、外に逃げたと思って迎え火を放とう」


 夜は大勢の見張りを立てて輪番で休むことにしたが、誰も眠ることができなかった。煙焔(えんえん)はテンゲリを紅く焦がし、熱風は疲れきった将兵を(なぶ)り続けた。インジャも勧められて身を横たえたが、(ニドゥ)を閉じることはなかった。


 翌日になっても火勢は衰えるどころか、なおもその威力を増して着々と版図(ネウリド)を拡げていた。もちろんマジカンは現れない。サノウやセイネンは焦りを覚えてインジャに迫った。


「とりあえずは迎え火を! このままでは全滅です」


 インジャはじっと目を閉じていたが、ついに苦しげに言った。


「やむをえん。過ち(アルヂアス)なきよう行え」


 二人は頷くと、すぐに八方に兵を分けて手はずを整える。動けるものを集めて、まずは周辺の樹々(モド)を伐採する。その間にも煙を深く吸って倒れるものが続出したが、(ようや)くそれを()えると、いよいよ火を放つ担当を決めた。


 すなわち(ヂェウン)はセイネン、西(バラウン)はトシ・チノ、(ホイン)はナオル、(ウリダ)はマタージ、東南はコヤンサン、西南はシャジ、東北はハツチ、西北はジュゾウがそれぞれ割り当てられた。


 (サルヒ)の吹く西から北にかけては、延焼せぬよう特に慎重を期さねばならない。万端整うと、サノウが頂上から銅鑼を鳴らして合図を送った。八方の将兵が応じて次々と火を放っていく。まず東南側から始めて、風の様子を見ながら指示が送られる。


 彼らが放った火は乾いた樹々に移り、ゆっくりと外に向けて広がりはじめた。それを見てみな歓声を挙げる。


 ときどき強風(ハラ・サルヒ)が火煙を飛ばして(エレグ)を冷やしたが、それでも喫緊の危険(アヨール)は回避したのではないかと一同は喜んだ。だが独りインジャだけは厳しい(ヌル)で火の様子を眺めていた。


 西北側に見張りを付けて、八方の将兵は引き揚げてくる。サノウはみなを(ねぎら)うと、インジャに事の次第を報告した。


「カオルジを選ばれたのは実に達見でした。沼地(ヌウ)の方角をご覧ください。一面炎に包まれております。もし沼地に退避していたら、とうに全滅していたでしょう」


 しかしインジャの目は(うつ)ろで、聞いているのかどうかも判然としない。サノウは居住まいを正すと言った。


「しっかりしてください。全軍の生死がかかっているのですぞ。三万余の将兵に加えて、山塞ではそれに数倍する家族(ゲルブル)が待っているのです。強い意志(オロ)を持って堪えねば、インジャ様を信頼(イトゥゲルテン)してきた諸将に(そむ)くことになりかねません」


 その(クチ)の籠もった諫言に、はっと我に返る。サノウはそれを確かめると、俄かに声を落として、


「……しかしまだまことに危難を越えたとは言えません」


「と言うと?」


 サノウは陰鬱な表情で言った。


「これだけ広範囲に及ぶ火勢、一日や二日では治まりますまい。十日続くかもしれず、またひと月続くかもしれず、悪くすれば半年続くこともあるかもしれません」


 インジャはみるみる青ざめる。


「その間、我らはここに閉じ込められるということか!」


そうです(ヂェー)。火急のこととて糧食(イヂェ)はほとんどありません。密かにハツチに尋ねたところ、持って三日とのこと」


 その声はもはや消え入りそうなほどである。


「三日……」


はい(ヂェー)。もっとも軍馬(アクタ)を糧食に供すれば、おおいに持ち(こた)えられましょうが、まさかすべてを食い尽くすこともできません。また恐ろしいのは疾病の蔓延だとキノフが言っております。手を尽くして防がねばなりませんが、こればかりは人力も及ばぬことがあります」


 インジャは今ではすっかり冷静さを取り戻して、


「なるほど、真の苦難はこれからというわけだな。……(オス)はどうだ?」


 するとサノウはすぐには答えない。ついに首を振って言うには、


「実は(ブラグ)があるにはあるのですが……」


 たちまち悟って、


「毒か……」


はい(ヂェー)(ブルガ)に抜かりはなく、昨夜数名の兵が泉の水を飲んで絶命しました。死骸は病の(もと)ゆえ地に深く埋めました。全軍に泉には近づかぬよう布告してあります」


 インジャはすっかり言葉を失う。サノウは一礼すると、無表情のまま立ち去る。


 また夜が明けた。火災は治まる気配がない。彼らの放った火は順調に広がり、周囲にその痕跡を残していたが、まだとても連丘を脱出することはできそうにない。


 瞬く間(トゥルバス)に三日が過ぎると、食い繋いだ糧食も残り僅かとなった。諸将も落胆して悵然(ちょうぜん)(注1)とするほかない。ドクトがテンゲリを仰いで長嘆しつつ言うには、


「ああ、(クラ)さえ降れば……」


 願いも空しくテンゲリには(エウレン)ひとつなく、(しずく)ひとつ落ちてきそうにない。みなそれぞれ空を見上げたが、ぼんやり(ブゲエン)と霞んだ太陽(ナラン)が弱々しく照っているばかり。風だけがびゅうびゅうと吹き(すさ)ぶ。ナオルが誰にともなく呟いた。


「もうすぐ(オブル)だ。雨などという生易しいものではない。風雪(ボロアン)がこの火を消すだろう。しかしそうなれば、それは我々の(アミン)の灯をも消すだろう」


 糧食すらないのに、ましてや防寒の備えなどあろうはずもなかった。


 打ちひしがれる中、インジャは夕刻(ヂルダ)になって諸将を集めた。そして切々と語りはじめたが、その言葉から好漢(エレ)たちは決意を固め、一縷(いちる)の希望を胸にそれからの数日を過ごすこととなる。


 まさに火神の猛威は人力を嘲弄し、テンゲリをも恐れぬ奸計は巨星の輝きすら鈍らせるといったところ。宿星(オド)(めぐ)り合わせを経て集った英傑好漢の命は今や風前の灯のごとく、絶体絶命の窮地に(おちい)ったわけだが、果たしてインジャは何と言ったか。それは次回で。

(注1)【悵然(ちょうぜん)】失望して悲しみ恨むさま。

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― 新着の感想 ―
[良い点] なんかもう詰んでね?笑
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