第五 一回 ④
マタージ緑陵の嶮を度りて将兵を分かち
ウルゲン紅蓮の剣を翳して義君を奔らす
しかしマタージはゆっくりと首を振ると、
「ずいぶん前にやってきたハツチですら間一髪だったのです。ここからもっとも遠くにいた兄が脱出できたとは思えません。その証左に、兄に急を伝えたジュゾウの部下も戻らぬではありませんか」
これにはインジャも言葉に詰まったが、何とか堪えて言った。
「ひょっとすると連丘の外に逃れたかもしれぬ。そうだ、きっとそうに違いない。マジカン殿は必ず生きている」
自身の言葉に励まされて幾度も頷く。しかしマタージは、
「だとよいのですが……」
そう小さな声で答えて、じっと彼方を眺める。
「まだここに火が達するのは先だ。明日まで待って来なければ、外に逃げたと思って迎え火を放とう」
夜は大勢の見張りを立てて輪番で休むことにしたが、誰も眠ることができなかった。煙焔はテンゲリを紅く焦がし、熱風は疲れきった将兵を嬲り続けた。インジャも勧められて身を横たえたが、目を閉じることはなかった。
翌日になっても火勢は衰えるどころか、なおもその威力を増して着々と版図を拡げていた。もちろんマジカンは現れない。サノウやセイネンは焦りを覚えてインジャに迫った。
「とりあえずは迎え火を! このままでは全滅です」
インジャはじっと目を閉じていたが、ついに苦しげに言った。
「やむをえん。過ちなきよう行え」
二人は頷くと、すぐに八方に兵を分けて手はずを整える。動けるものを集めて、まずは周辺の樹々を伐採する。その間にも煙を深く吸って倒れるものが続出したが、漸くそれを了えると、いよいよ火を放つ担当を決めた。
すなわち東はセイネン、西はトシ・チノ、北はナオル、南はマタージ、東南はコヤンサン、西南はシャジ、東北はハツチ、西北はジュゾウがそれぞれ割り当てられた。
風の吹く西から北にかけては、延焼せぬよう特に慎重を期さねばならない。万端整うと、サノウが頂上から銅鑼を鳴らして合図を送った。八方の将兵が応じて次々と火を放っていく。まず東南側から始めて、風の様子を見ながら指示が送られる。
彼らが放った火は乾いた樹々に移り、ゆっくりと外に向けて広がりはじめた。それを見てみな歓声を挙げる。
ときどき強風が火煙を飛ばして肝を冷やしたが、それでも喫緊の危険は回避したのではないかと一同は喜んだ。だが独りインジャだけは厳しい顔で火の様子を眺めていた。
西北側に見張りを付けて、八方の将兵は引き揚げてくる。サノウはみなを労うと、インジャに事の次第を報告した。
「カオルジを選ばれたのは実に達見でした。沼地の方角をご覧ください。一面炎に包まれております。もし沼地に退避していたら、とうに全滅していたでしょう」
しかしインジャの目は虚ろで、聞いているのかどうかも判然としない。サノウは居住まいを正すと言った。
「しっかりしてください。全軍の生死がかかっているのですぞ。三万余の将兵に加えて、山塞ではそれに数倍する家族が待っているのです。強い意志を持って堪えねば、インジャ様を信頼してきた諸将に背くことになりかねません」
その力の籠もった諫言に、はっと我に返る。サノウはそれを確かめると、俄かに声を落として、
「……しかしまだまことに危難を越えたとは言えません」
「と言うと?」
サノウは陰鬱な表情で言った。
「これだけ広範囲に及ぶ火勢、一日や二日では治まりますまい。十日続くかもしれず、またひと月続くかもしれず、悪くすれば半年続くこともあるかもしれません」
インジャはみるみる青ざめる。
「その間、我らはここに閉じ込められるということか!」
「そうです。火急のこととて糧食はほとんどありません。密かにハツチに尋ねたところ、持って三日とのこと」
その声はもはや消え入りそうなほどである。
「三日……」
「はい。もっとも軍馬を糧食に供すれば、おおいに持ち堪えられましょうが、まさかすべてを食い尽くすこともできません。また恐ろしいのは疾病の蔓延だとキノフが言っております。手を尽くして防がねばなりませんが、こればかりは人力も及ばぬことがあります」
インジャは今ではすっかり冷静さを取り戻して、
「なるほど、真の苦難はこれからというわけだな。……水はどうだ?」
するとサノウはすぐには答えない。ついに首を振って言うには、
「実は泉があるにはあるのですが……」
たちまち悟って、
「毒か……」
「はい。敵に抜かりはなく、昨夜数名の兵が泉の水を飲んで絶命しました。死骸は病の原ゆえ地に深く埋めました。全軍に泉には近づかぬよう布告してあります」
インジャはすっかり言葉を失う。サノウは一礼すると、無表情のまま立ち去る。
また夜が明けた。火災は治まる気配がない。彼らの放った火は順調に広がり、周囲にその痕跡を残していたが、まだとても連丘を脱出することはできそうにない。
瞬く間に三日が過ぎると、食い繋いだ糧食も残り僅かとなった。諸将も落胆して悵然(注1)とするほかない。ドクトがテンゲリを仰いで長嘆しつつ言うには、
「ああ、雨さえ降れば……」
願いも空しくテンゲリには雲ひとつなく、滴ひとつ落ちてきそうにない。みなそれぞれ空を見上げたが、ぼんやりと霞んだ太陽が弱々しく照っているばかり。風だけがびゅうびゅうと吹き荒ぶ。ナオルが誰にともなく呟いた。
「もうすぐ冬だ。雨などという生易しいものではない。風雪がこの火を消すだろう。しかしそうなれば、それは我々の命の灯をも消すだろう」
糧食すらないのに、ましてや防寒の備えなどあろうはずもなかった。
打ちひしがれる中、インジャは夕刻になって諸将を集めた。そして切々と語りはじめたが、その言葉から好漢たちは決意を固め、一縷の希望を胸にそれからの数日を過ごすこととなる。
まさに火神の猛威は人力を嘲弄し、テンゲリをも恐れぬ奸計は巨星の輝きすら鈍らせるといったところ。宿星の運り合わせを経て集った英傑好漢の命は今や風前の灯のごとく、絶体絶命の窮地に陥ったわけだが、果たしてインジャは何と言ったか。それは次回で。
(注1)【悵然】失望して悲しみ恨むさま。




