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草原演義  作者: 秋田大介
巻四
203/785

第五 一回 ③

マタージ緑陵の(けん)(はか)りて将兵を分かち

ウルゲン紅蓮の剣を(かざ)して義君を(はし)らす

「四方から私たちを焼くつもりだね」


 アネクが妙に冷静に呟く。その(ダウン)に我に返ったナオルがみなを()かした。


「ここにいてもしかたがない。義兄上と合流(ベルチル)するんだ! 見ろ、彼方の煙は徐々に勢いを増している。あっという間にここまで広がってくるぞ」


 マタージが振り返って嘆息すると、


「あ、兄上(アカ)は入口にもっとも近い(ドブン)に布陣した。果たして生きて(オスチュ)再会することができるだろうか」


 ナオルははっとして顧みると、


「愚かなことを言うな! きっとすぐに逃げてくるはずだ。とにかく進もう!」


 しかしマタージはなおも濃煙から(ニドゥ)を離さず、


「ああ、『()()()()()()()()()()』などと余計なことを言わなければよかった。もし兄上が焼け死んでしまったら、私はどうして生きていられよう……」


 ナオルはかっとしてその(ムル)(つか)むと、


「さあ、くだらないことを言うのは止めて前だけを見るんだ! 義兄上はそんな言葉(ウゲ)は好まぬぞ!」


 そう言ううちにも煙は明らかに勢いを増す。ふと左右を見渡せば、そちこちからやはり煙が上がるのが見える。好漢(エレ)たちは友軍(イル)を待つ余裕もなく、あわてて(モル)を進んだ。


 何とかインジャの中軍(イェケ・ゴル)と合流を果たす。見ればトシの姿(カラア)もそこにあった。インジャは、サノウとセイネンに(はか)る。サノウが即座に答えて、


「ふたつの道があります。カオルジに登って難を避けるか、あえて沼地(ヌウ)に入って(ガル)(しの)ぐか」


 セイネンが応じて、


「沼地は数多くありますが、大軍を収容できるほど広いものはありません。しかしカオルジでは炎より先に煙に巻かれるかもしれません」


 インジャは瞬時(トゥルバス)に意を決すると言った。


「カオルジに避難しよう。知った(ガヂャル)でもあるし、もっとも火の(めぐ)りが遅いはずだ。後方から来るものにもそう伝えよ!」


 これを受けて伝令が飛び出していく。インジャはその場にいた全軍を率いて、馬首をカオルジに向けた。


 相も変わらず火薬(ダリ)の炸裂する音は鳴り続けており、噴き上がる濃煙は徐々にテンゲリを埋めていく。ついに彼らの周りでも樹々(モド)の焼ける臭気(コンシュウ)が漂いはじめた。


「急げ! こんなところで死んでなるものか!」


 インジャが叫んだが、(ヌル)はすっかり青ざめている。兵を励ますその(ホオライ)はしくしくと痛み、目も染みて自ずと涙ぐむ。偶々(たまたま)振り返ったカトラが声を挙げて、


「おお、火だ! 彼方の丘に火の手が!」


 顧みた諸将は、遠く(ホル)の丘が紅蓮の炎を上げて燃え盛っているのを目にした。


「振り返るな!」


 ナオルが叱咤して、全軍は死にもの狂いでカオルジを目指す。やっとのことでカオルジに至ると、サノウは全軍を動員して(ふもと)に空堀を掘らせた。さらに(ウヴス)を刈って火の襲来に備える。手はずを整えてインジャに報告すると、さらに言うには、


「麓から逆に火を放てば、きっと迫る炎を喰い止めることができるでしょう」


 それを聞いたインジャはおおいに怒って、


「まだ多くの将兵が取り残されているのだぞ! 自らの火が彼らを焼くかもしれぬ。そんなことは許さん!」


 サノウは恐懼して引き下がる。インジャはじっとしているのももどかしく、自ら空堀の掘削(くっさく)に加わった。それを見た諸将も()じ入ってこれに参加した。


 カオルジから望む連丘はすでに大半が炎と煙に包まれつつあり、(サルヒ)が煙を運んできて目や(ハマル)を突いた。好漢たちは涙と咳に苦しみながら黙々と作業を続けた。


 煙焔(えんえん)天に(みなぎ)り、赤竜は闘躍し、粉蝶は争飛するのを遠望して、この微々たる抵抗に意味があるのか判然としないまま、誰も何も言わずに(ガル)を動かす。


 そうするうちに散在していた将兵が辿り着きはじめた。まずコヤンサンが汗びっしょりで駆けてきたのを筆頭に、ナハンコルジ、シャジ、ハツチが青い顔で逃げてきた。


 ハツチなどは恐怖のあまり膝が震え続けており、(アクタ)を降りてしばらくは立ち上がることもできなかった。そして言うには、


「もうすっかり諦めていた。辺りは濃い煙が濛々と立ち込めて目を開けることもできぬほど。火の粉ははらはらと降りかかって我が(サハル)を焼くし、風はかっかっと熱く(ハツァル)を撫で、樹々の()ぜる音がすぐ近く(オイル)で湧き起こる。今まで生きてきて、まことに死ぬ思いをしたのは初めてだ」


 これを聞いた諸将は、いまだ至らぬ将兵の身を(おもんぱか)って居ても立ってもいられない。火災は(コセル)を嘗めるようにカオルジに迫る。(ウリダ)からも(ホイン)からも、また(バラウン)からも(ヂェウン)からも。すでに近辺にも熱い(ハラウン)気が(クイラン)を巻きはじめていた。


 ついにイエテンとタアバがジュゾウとともに到着した。多くの兵を失っており、彼ら自身もあちこちに火傷を負っていた。インジャは彼らをキノフに預けて休ませると、さらに儚い抵抗に没頭した。


 ほどなく空堀は一応の完成を見たが、連丘全体を焼き尽くさんとする火竜は勢いを弱めることもなく次第に迫りつつあった。


 (ナラン)は西に傾き、東の空は(くら)くなりつつあったが、それはいよいよ炎光を際立たせる。紺色のテンゲリに黒煙が不気味な紋様を描き、ただただ不安を(あお)る。


 遠くの空は炎が照り映えて奇妙に赤黒く、将兵は見たこともない冥府(バルドゥ)を連想して恐怖に(おのの)く。煙に()せ、目をしばたたきつつ立ち尽くすばかり。


 まだ、マジカンが現れない。インジャはひたすら彼を待っていた。そこへマタージが悄然として近づくと、沈痛な面持ちで言うには、


「義兄上、こちらから迎え火を、放ってください……」


 インジャは驚いて目を(みは)った。それを正視することなく(うつむ)いたまま続けて、


「迎え火を放てば多くの将兵の(アミン)が救われるかもしれません。この火勢は、あの空堀くらいで防げるものではありません。どうかみなをお救いください。きっと兄もそれを望むはずです。私はもう兄の生存は諦めました」


 インジャはみるみる涙を溢れさせて、


「そんな悲しいことを言うな。マジカン殿はきっと生きてここに来ると信じている。火はまだ遠い。今しもこちらへ向かっているかもしれん」

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