第五 一回 ②
マタージ緑陵の嶮を度りて将兵を分かち
ウルゲン紅蓮の剣を翳して義君を奔らす
そのころ先鋒のトシ・チノは、ついにカオルジを視界に捉えていた。セイネンに向かって言うには、
「敵影を見ぬままここまで来たが、後方は無事だろうか」
「マタージとサイドゥの眼を欺くことはできますまい。ひょっとするとカオルジで迎え撃つ肚かもしれません」
カトラがそれを聞いて、ううむと唸る。
「それではナオルらが困るのではないか」
タミチも眉を顰めたが、言うには、
「ナオルのことだ。無理はするまい。何とか敵を誘い出す方策を練ろう」
なおも警戒を怠らず進む。カオルジが徐々に近づいてくる。やはり敵は現れない。と、一坐の斥候があわてて戻ってくるのに出合った。
「どうした?」
「ジュ、ジュゾウ様を発見しました! 何とナオル様もご一緒です!」
「何だと!?」
諸将は続く言葉を失って、顔を見合わせた。軍を留めて待っていると、ナオルをはじめジュゾウ救出に向かった面々が駆けてくる。
「おお、まことだ! これはいったい……?」
ナオルたちは、なぜかおおいにあわてている様子。訝しく思っていると、ナオルが卒かに凄まじい形相で叫んだ。
「すぐに軍を返せ! 恐ろしいことになるぞ!」
「待て、待て。急にそんなことを言われても呑み込めぬ。敵軍はどうしたのだ? 我らは出合わなかったぞ」
呆気にとられつつ尋ねれば、何と答えたかといえば、
「ウルゲンたちはもうここにはおらぬ!」
居並ぶ諸将はおおいに驚いて、口々に騒ぎだす。ナオルはそれを鎮めて、
「カオルジはすでに引き払われ、ジュゾウだけが独り縛られたまま残されていたのだ。我らはこれぞ天佑とて助け出したのだが、ジュゾウが言うには……」
するとジュゾウ本人があとを引き取って、早口にまくしたてる。
「トシの兄貴、聞いてくれ。敵は昨日のうちに陣を引き払ったんだ。そこへ俺を騙した四頭豹のドルベン・トルゲって奴がやってきて言うには、『愚かな山塞の小僧どもは明日連丘に入るだろう。そのときがお前らの最期だ。この忌まわしい連丘ごと焼き払ってくれるわ』、……つまり、火計の準備が整っているって寸法だ! まさか、まさかインジャの兄貴は連丘に入ってはいるまいね?」
誰もがみるみる青ざめる。セイネンが震える声で答えて、
「……義兄上どころか、我が軍は一人残らず連丘に入っている。義兄上も相当奥まで来ているはずだ」
ナオルは顔色を変えて言った。
「とにかくすぐに撤退だ! 後方には我々が伝える!」
そう叫ぶや、馬腹を蹴って駈けだした。アネクらもこれに続く。
トシらはこれを呆然と見送ったが、その直後には大混乱に陥った。相次ぐ怒号と、それを鎮めようとする諸将の声が交錯した。やっとのことで命が伝わり、進路を転じる。
ナオルらは散々に馬を飛ばして、インジャ率いる中軍に駆け込んだ。再会を喜び合う暇もなく、こちらもたちまち恐慌に陥る。
「連丘に火をかけるとは、テンゲリをも恐れぬ所業!」
インジャは怒りに面を染めて声を荒らげた。サノウがこれを宥めて退却の指示を出す。
ナオルらは次いでマタージの軍へと向かおうとする。そこでトオリルから、後軍は幾手にも分かれて点在していることを聞いて、思わずテンゲリを仰ぐ。
そのときである。突然方々から何かが弾けたような轟音が巻き起こった。かと思うと、ごおんと地を揺るがして鈍い震動が伝わってくる。ジュゾウがはっとして叫ぶ。
「火薬だ! 火薬を使ったに違いない!」
「間に合うか?」
ナオルらは腕も折れよとばかりに鞭を振るう。駆けていくとマタージ軍が困惑して足を止めているのに出合った。
「マタージ!」
「おお、ナオル兄! ジュゾウも無事であったか。……ところで今の音は何だ?」
「火薬だ! 敵人が火薬を使ったんだ! 連丘は火の海になるぞ!」
ナオルが叫ぶ。さすがの長韁縄サイドゥも、これにはおおいに驚いて、
「信じられぬ! 連丘に火を放てばどのような惨事になるか、考えなかったのか!?」
ドクトが焦れて大声で叫ぶ。
「とにかく早く脱出だ! みなやられるぞ!」
ジュゾウがサイドゥに向かって、
「兵を分けたと聞いたが、どこに在るかわかるか。今から俺の部下を走らせる」
そこであわてて十人ほどの兵を呼ぶと、
「このものらが知っている。疾く!」
ところが、マタージがそれを制した。ジュゾウが苛立って、
「なぜ止める!」
「……あ、あ、あれを見よ」
その指差したほうを見れば、すでに灰白色の濃煙が舞い上がっている。それはまさしく連丘の入口、すなわち彼らの退路にあたる方角であった。
「ちぃっ! なるほど、敵は賢い!」
舌打ちして叫ぶと、
「とにかく事の次第を伝えて、火の手から逃れるよう説いてくる!」
そう言ってサイドゥの配下とともに駆け去った。あとに残ったナオルは舞い上がる濃煙を睨みながら、
「あれでは後方には脱けられまい……。別の道を探さなくては……」
アネクがはっとして、
「いけない! インジャ様たちが退いてくるわ! 止めなくては……」
ドクトとオノチがその役を引き受けて、また奥に向かって駆けだした。そのとき再びごうんと火薬が爆発する音が轟いた。




