第 一 回 ②
草原乱れてジョルチ倶に争い斃れ
族長卒してフドウ忽ち遁れ走る
時は過ぎ、季節は夏に差しかかろうというある夜のこと、ムウチはなぜか胸騒ぎがして寝つけずにいた。フウは、アイヅム氏の族長テクズスの婚礼に招待されて今朝早くに出かけていき、今はいない。
テクズスとはフウの盟友である。盟友とは義兄弟の誓いを交わして同盟を結んだ関係のことをいう。
乱世にあって、盟友は極めて重んじられた。血族さえも心許せぬこの時代に、盟友こそもっとも信頼できる味方だったからである。
その誓いは、草原の法、氏族の誇り、相互の仁義などに拠る神聖な契約である。これに背くことはそのすべての放棄を意味した。
それは上天に逆らうことであり、草原の民としてもっとも恥ずべき行為であった。
さて、ムウチはゲルの外に出てみた。風もなく、空にはひっそりと月が浮かんでいる。その優しい光が風景を青く照らしている。
「なぜだか今夜は悪い予感がしていたのだけれどきっと気のせいだわ。こんな静かな夜に何もあるわけがない」
戻ろうとしたところ、突然遠くに馬蹄の音を聞いた。はっとして彼方を窺えば、一騎息せき切って駆けてくるものがある。何ごとかと身構えていると、それはフウの従弟ツウティであった。彼はフウに従ってテクズスの婚礼に行っていたはずである。
「どうしたの、お前は族長と一緒ではなかったのかい」
そう聞いた顔が心なしか青ざめていたのは、何も月の光のせいだけではなかっただろう。ツウティは下馬するや、ムウチの前に平伏した。肩が大きく揺れている。
「どうしたというの」
しかしツウティは息が切れて即答すべくもない。とりあえずこれを助け起こしてゲルに入る。落ち着くのを待って事の次第を尋ねると、唇をぶるぶると震わせ、目には涙を浮かべつつ、絞り出すように言うには、
「……う、裏切られました! 族長はテクズスの罠に嵌まり、こ、殺されました……。私だけが殆うく難を逃れ、ほかの従者はみな……。申し訳ありませぬ」
ついにその目から大粒の涙が溢れる。ムウチはそれを聞くや、あっと声を挙げて気を失ってしまった。ツウティはあわてて人を呼び、これを介抱した。
また、フドウ氏の長老でフウの叔父にあたるオラジュイと、フウの兄のハクヒを呼んで、悲報を伝えた。聞くやオラジュイは、
「何と卑劣な! 盟友を陥れて殺すとは草原の民にあるまじき悪行。即刻仇討ちせねばならぬ!」
おおいに怒ったが、ハクヒが制して言うには、
「お待ちください、叔父上。族長亡き今、衆をまとめるものがおりませぬ。加えて夫人は身重であります。とりあえずは安寧の地を索めるのが先決。もし今、テクズスに襲われたらひとたまりもございません」
老将の怒りは治まらぬようだったが、ハクヒはかまわず一同を集めるように命じた。
ムウチのゲルの前に篝火が焚かれ、瞬く間に人衆が集まる。しかし点呼すると、早くも幾人か逃亡したものがあった。
「何と恥知らずな! それでもフドウの民か!」
オラジュイは今にも卒倒せんばかり。
ハクヒは両手を広げて告げた。
「聞いたであろう。我が族長が、アイヅム氏のテクズスに騙し討ちに遭った。今がフドウ存亡の秋。夫人が世嗣をお産みになるまで、力を尽くしてお守りせねばならん。これより急ぎ移動する。ひとつにはテクズスの手から逃れるため、ひとつには夫人と我が氏族の安寧の地を索めるためだ。よいな、至急出立の準備を整えよ!」
これを聞いて心中穏やかなるものはなかったが、ともかく旅装を整えるため各々ゲルへと帰っていった。ハクヒとツウティは交々オラジュイを宥めつつ、ムウチのゲルに入った。
「大兄、早くも逃げたものがおりました。今後も用心せねば、逃げ出すものがあとを絶たないでしょう」
ハクヒは眉間に深い皺を寄せて、
「お前の言うとおりだ。しからばツウティ、ここはよいからみなの準備を督促して回れ。逃げ去るものあらば追いかけて、事の次第によっては斬れ」
「はい! それではムウチ様をよろしくお願いします」
ツウティが剣を引っ提げて出ていったあと、漸くムウチが目を覚ました。しかし目は虚空をさまよい、あらぬ方を見ているといった有様。
「ご夫人、しっかりしてください。まもなく移動しますぞ」
肩を揺すって声をかけたが答えるでもない。
「しかたあるまい、あまりに突然のことであったからな。夫人は大切な身体。そっとしておくがよかろう」
オラジュイが言うので、ともにそこを辞してあとを従者に任せ、自身も準備を整えるべく己のゲルへと向かった。
半刻もせぬうちに移動の準備は整った。その間に逃亡を企てて斬られたものは十数人にも及んだが、いちいち憤っている暇もない。
「ひとまず西へと向かう! メンドゥ河を目指すのだ!」
ハクヒの号令で、フドウの一群は数多の家畜を追い立てつつ、一斉に移動を開始した。ムウチを車に乗せて先頭に立て、ハクヒ自らがこれを護る。最後尾にはツウティを配して引き続き逃亡に備えさせ、オラジュイは壮丁を率いて家畜を守る格好とした。
逸る気に反して移動は思ったようには捗らなかった。なぜならひとつにはムウチの身体を気遣って強行軍とはいかなかったからであり、ひとつには逃亡者が続出し、しかもその連中が必ず馬や羊を盗んでいこうとしたからである。ツウティもオラジュイも家畜を奪還せんと休む間もなかった。