第五 〇回 ③
四頭豹ナオルの背を襲いて之を困しめ
雷霆子ウルゲンの虚を衝きて是を走らす
実際のところ、ナオルらは予想以上の苦戦を強いられていた。もともと下から上に向かって攻めるのは兵法の忌むところ、しかも山塞軍はもとの道を戻る以外に方途がないため、兵の運用に融通が利かない。
ウルゲン側もそれを解っていて、その方面に厚く陣を張っている。アネクらの武威はもとより衆を圧して余りあったが、劣勢を覆すには至らない。次々に迫る敵兵は尽きることを知らぬかのようであった。
丘の上で戦況を見守っていたウルゲンは、敵中にナオルの姿を認めると小躍りして喜んだ。傍らのドルベン・トルゲに言うには、
「おお、我が不悌(注1)の弟がいるぞ! ははは、ざまを見ろ! 兄を蔑ろにした報いじゃ!」
ドルベンは冷ややかに一瞥をくれただけで、また戦場に視線を戻す。ときどき思い出したように指令を出す。応じて背後に控える兵が旗を右に左に動かすと、即座に眼下の軍勢に伝わってナオルらの進路をたちまち塞ぐ。
ウルゲンは変幻自在に兵が動くのを見て、子どものように燥いだ。
「ははは、必死のようじゃのう! あのナオルが我が軍の前に逃げ惑っておるわ。やれ、やれ! あの驕慢の鼻をへし折ってやれ!」
ドルベンはますますこれを軽蔑したが、微塵も顔に出すことなく無言で指揮に集中した。
さすがのナオルらも次第に疲労しつつあった。狭い道でただただ突撃を強いられる戦闘は、被害を徐々に大きくしていく。傍らで奮戦するドクトが堪りかねて叫んだ。
「とても突っ切ることはできぬ! ここはわしが盾になろう。退いて別の道に賭けてはどうか!」
ナオルは目をかっと見開いて叫び返す。
「言ったはずだ、一人も欠けてはならぬ! みなで義兄上に復命するのだ! もう一度弱音を吐いてみろ、あとで散々に殴り飛ばすぞ!」
すでにみな返り血で真っ赤に染まっている。傷を負わぬものもなく、従う兵も減りはじめていた。軍は前後を分断されて四分五裂の有様であった。
また後方ではオノチが独り奮闘していた。冷静に戦況を見極め、寄せ来たる敵に片端から矢を浴びせる。その技は鬼神も避けて通るほど。確実に敵の急所を射抜いていく。これに兵衆も勇を得て、一心に敵に向かっていく。
ナオルたちがぎりぎりのところで崩れなかったのは、アネクやナオルらの強固な意志と奮戦に加えて、このオノチの神技に因るところが大きかった。ウルゲン軍も攻めあぐねて戦闘は長引く。
オノチは次々に矢を放ちつつ思うには、
「ナオルによると、ウルゲンは怯懦な男と聞く。ひとつ驚かせてやろう」
卒かに怒号を挙げると、守っていた箇所を捨てて手勢とともに敵の一角へ突っ込んだ。あまりの勢いに敵も思わず道を空ける。オノチは手勢をその間隙に捩じ込むと、ひと息にウルゲンのいる丘に取りついた。
「むっ、何ごとじゃ!」
ウルゲンは目を剥いて驚愕する。
オノチはかまわず猛進する。その間にさっと矢をつがえると、迷うことなくひょうと放つ。矢は空を裂いて飛び、何とウルゲンの騎った馬の足許にどんと突き立った。馬は驚いて前脚を高々と上げる。
「わわわ」
ウルゲンは殆うく落馬を免れて、おたおたと体勢を立て直す。それを見てオノチは常々出したこともないような大声で、
「お前の命などいつでも頂戴できるのだぞ!」
とてぱっと馬首を廻らし、乱戦の中へと返っていった。ウルゲンはすっかり肝を潰して、真っ青な顔で四頭豹に言うには、
「もう十分じゃ、退却の合図を! 敵には天王の加護があるぞ! 退却せよ、退却じゃ!」
ドルベンは面喰らって、
「何をおっしゃるのです、もうひと押しではありませんか! ここで兵を退くなど、そんな愚かな策がありましょうか!」
「うるさい! あの神技を見なかったのか。奴の弓はいつでもわしを狙っているのだぞ、退却じゃ!」
「あんな虚勢を真に受けるとは……。勝利は目前ですぞ!」
さすがの四頭豹もおおいにあわてる。しかしウルゲンは聞く耳も持たず、一散に馬首を廻らすと丘の反対側へ駆け降りてしまった。
ドルベンはしばらく開いた口が塞がらなかったが、やがて首を振ると静かに退却の命を下した。
応じて戦場に銅鑼の音が轟いた。双方の兵はともにはっとする。ウルゲン軍に明らかに動揺の色が走った。少しの間、判断を迷っているようだったが、再度銅鑼が鳴るのを聞いて漸く退却に転じた。
信じられない思いはナオルらも同様であった。退いていく敵を呆然と見送るばかり。トオリルが真っ先に我に返って尋ねた。
「ナオル様、追いますか?」
「いや、よい。何か変事が起こったのだろうか。なぜここまで優位に進めた戦を放棄するのか理解に苦しむが……」
セイネンが駆け寄って、これを急かして言うには、
「この機に連丘を脱しましょう。いつ敵の気が変わるか判りません」
「罠ではなかろうな?」
「いや、敵兵の反応を観るに、彼らにとっても意外な命令だったに違いありません。帰りましょう」
その言葉に順って、ナオル軍も撤退する。独りオノチだけは内心大笑いしつつ思うに、
「これほどうまくいくとは。同じ血を分けながら、ナオルとはえらい違いだ」
さて丘の上ではドルベンが最後まで留まって唇を噛んでいた。自軍の撤退を見届けると、
「豎子め! 狗にでも喰われて死ぬがいい」
そう吐き捨てて馬首を廻らす。
(注1)【不悌】兄や年長者に対して、年少者としての道を守らないこと。 また、そのさま。