第四 七回 ④
ヒィ河南に神都を囲んで奸人を驚かし
インジャ堂下に好漢を集めて下山を議す
「意見も何も、明日にでも出陣できますぞ!」
ドクトが杯を突き上げて叫ぶ。方々から「そうだ、そうだ!」と同意の声。インジャは笑みを浮かべてそれを制すると、サノウに向かって尋ねた。
「諸将はああ言っているが、軍師の意見は?」
みな、しんと静まりかえってこれを注視する。サノウは口を開くと、
「この二年の間、みなよく辛抱しました。機は熟したかと思われます。すでに糧食は足り、兵甲は整い、軍馬は厩舎に溢れています。今をおいて下山のときはありません。ジュゾウに由れば、マシゲルの衰退で中原にはヤクマン以外の雄族はないとか。これに伴ってサルカキタンらが小族を吸収しつつあります。彼奴らが勢いを取り戻す前にこれを討たねばなりません」
決然とした口調に諸将の興奮は頂点に達した。マタージが立ち上がって言った。
「ただ、下山してアイルを展開すれば、早晩ヤクマン部とことを構えることになろう。それを肝に銘じておかねばならん」
セイネンが頷いて続ける。
「ヤクマン部は騎兵十万を擁する大族。失地回復したとて気は抜けぬ」
軍政を司るシャジが立って言うには、
「我が兵力はジョルチ軍が、フドウ氏四千、ジョンシ氏四千、キャラハン氏一千、ズラベレン氏三千、ベルダイ氏六千、アイヅム氏二千の計二万騎。それにタロト軍が中軍一万五千、右軍五千、左軍五千の計二万五千騎。そのほか、カミタ氏一千、ドノル氏一千、イタノウ氏一千で、総計四万八千騎ほどになる。すなわちヤクマン部の半分にも満たない」
諸将はそれを聞いて、それぞれ考え込む。するとサノウが珍しく笑いながら、
「心に留めておけばよい。これまでどおり焦ることなく牧地を拡げていけば、憂うることはない」
一同は愁眉を開き、また勢いを取り戻す。さらにサノウが言うには、
「まずは積年の仇敵、サルカキタンを討ちましょう。ベルダイ右派は誰の助力もなく草原に孤立しています。擁する兵力は僅か数千に過ぎません。その後、軍を遣ってウルゲン率いる小ジョンシを滅ぼせば、広大な牧地を得ることがかないます」
「そのあとは?」
トシ・チノが先を促す。答えて言うには、
「西進してタムヤを収めましょう。ウリャンハタ撤退後、タムヤは自治に委ねられています。かの街の民は久しく英主の登場を待ち望んでいます」
タムヤの名を聞いて、インジャはエジシを思い出す。それとともにハクヒのこと(注1)が鮮明に脳裏に浮かんで、思わず涙を零した。傍らのナオルがそれに気づいてそっと袖を引く。インジャははっとして目を拭うと、笑顔を作って言うには、
「明日、編成を発表しよう。今夜は心行くまで飲もう」
みな久々に爽快な気分で杯を傾けたが、くどくどしい話は抜きにする。
散会してから、インジャはムウチを訪ねて、下山が決まったことを報告した。さらにタムヤを収めようとしていることを告げれば、おおいに喜んで、
「タムヤは第二の故郷。きっとエジシ様が難儀をしているはず。無事に成功することを祈っております」
「はい。エジシ様は我が師、草原に出る機会を作ってくださった恩は忘れません。早く失地を回復してタムヤに行けるよう努めます」
インジャはゲルを辞したあと、星空を眺めながらまたハクヒの死を思って悄然としていたが、そこへ卒かに声をかけたものがあった。
「何を考えているの?」
顧みれば何とチハル・アネクであった。その白い面に月の光を浴びながら嫣然(注2)として立っている。インジャは少なからず狼狽えて、幾度か咳払いすると、
「いや、何でもない。月があまりに綺麗だから眺めていた。それより夜風は身体に障る。戻って休んだほうがよい」
そう言ってごまかす。しかしアネクは立ち去ろうとせず、その大きな瞳でインジャを見返すと、
「……ハクヒ殿のことを考えていたのでしょう?」
インジャはやや驚いて、ふうと溜息を吐くと、
「そうだ。貴女の目は欺けないな。……ハクヒのためにも必ず仇敵を討ち、草原を回復しなければ」
するとアネクはしばし躊躇している様子だったが、やがて囁くように言うには、
「今度の出兵、必ず成功させると、ここでテンゲリに誓ってはいけないかしら」
言い添えて、
「……二人で」
インジャはどきりとして瞬時に耳まで朱く染めると、あわてて言うには、
「どうしていけないものか。よし、誓おう。うん、二人で」
アネクは莞爾と笑う。二人はともにテンゲリを仰いで心中誓いを立てたが、この話はここまでにする。
翌日から山塞は俄かに活況を呈し、出征の準備に忙しくなった。再び諸将が本塞に集められ、軍の編成が発表された。テムルチ、マルケ、トシロル、コニバン、カナッサの五名を除くすべての将が下山することになった。
「前軍はトシ・チノ率いるベルダイ軍六千、先鋒はチハル・アネク! 副先鋒はカトラとタミチ……」
シャジが次々と名を呼び、諸将は嬉々として命を受けた。総じて四万数千で草原に討って出ることになる。インジャが諸将を励まして、
「冬が来る前にサルカキタンを滅ぼすぞ! 中軍の命に従い、独断専行は慎め。ともに名を成すことをテンゲリに誓おうではないか!」
かくして山塞の英傑好漢は、旌旗を立てて下山することになった。集まった二十九人はいずれ劣らぬ有能の士、義においては盟主インジャ、副主ナオルがあり、武においてはトシ・チノ、アネク、ドクト、コヤンサンらがあり、智においてはサノウ、セイネン、サイドゥ、トオリルらがある。
これをもってこれを覩れば、このまま朽ち果てるはずもなく、再び世に出るは自明の理と言ったところ、果たしてインジャの下山はいかなる顛末を辿るか。それは次回で。
(注1)【ハクヒのこと】ハクヒがインジャを逃すために自ら囮となって戦死したこと。第二 五回③参照。エジシとハクヒの関係については、第 二 回②などを参照。
(注2)【嫣然】にっこりと艶やかに笑うさま。多く美女の微笑についていう。