第四 七回 ①
ヒィ河南に神都を囲んで奸人を驚かし
インジャ堂下に好漢を集めて下山を議す
さて、サルチンらのおかげで無事にズイエ河の渡河に成功したヒィ・チノは、さらにヘカトの策を容れて神都の攻囲に向かった。
ナルモント軍は途中遮るものもなく、その威容を神都に現した。突如迫った大軍に城内は上を下への大騒ぎ。衛兵を搔き集めてみたものの、その数は二千にも満たず、ただ為す術もなく楼台から城下の大軍を眺めるばかり。
ナルモント軍は東門および南門周辺に布陣した。蟻の這い出る隙間もないほど。神都の住民は一様に家屋の中で震えるだけであった。
ワラカン・ドルチは報告を受けた途端に、うっとひと声発したかと思うと卒倒してしまった。やむなく側近は互いに諮って、東征中のヒスワに急使を送る。
急使は唯一敵影のない北門から駆け出た。無論ナルモント軍はそれに気づいたが、ヒスワに攻囲を知らせることこそ狙いであったから、当然これを見逃す。
そのヒスワは、オノレン口攻略の端緒を見つけられぬまま、グルカシュといたずらに軍議を重ねていた。そこに神都が包囲されたとの報が入り、まるで天地が覆ったかのごとき衝撃を受けた。
呼擾虎グルカシュも目を白黒させて、ことの真偽を確かめたが、間違いなくナルモント軍三万が不意に現れたとのこと。
「奴らは河北で足止めを喰らっているはず、神都に現れるわけがない!」
グルカシュは声高に叫んだ。
「それだけの大軍を渡せる舟がそう容易に揃うわけがない。誤報ではないのか」
ヒスワも真っ青になって問い返す。急使は首を振って、
「この眼で見たことです。確かにあれはナルモント軍。疑いなく三万騎以上の兵で包囲しております。どうすればよろしいでしょう」
「まさか……。奴らには翼でもあるのか、それともテンゲリが奇跡をもたらしたか……。いずれにせよ容易ならぬ。このままでは帰るところを失うぞ」
呼擾虎はすっかり狼狽えて、
「そんな! ……すぐに引き返しましょう!」
「安易に言うな! 敵は三万を超える大軍。対する我らは一万騎を割っている。しかも目の前には五千の敵兵が在る。腹背に敵を受けることになったぞ。迂闊には退けぬ……」
二人は良い案もなく黙り込んだ。急使は所在なく佇んでいる。やがてヒスワが言った。
「……ともかく急使は帰そう。みなには、すぐに戻るから安心するようにと伝えよ。今夜、夜陰に紛れて陣を払う!」
それからジュレン軍はあわてて撤兵の準備を勧めたが、その動きはアケンカム軍にたちまち知れるところとなった。ゴオルチュ以下諸将は集まってことを諮った。
「敵の様子がおかしい。まるで撤退するかのようだが、諸将はどう思われる」
みな測りかねて口を開かない。そこでショルコウが立って言うには、
「歴戦の諸将に申し上げます。敵の不可解な動きは、決して偽りや計略の類ではありません。間諜の報告を聞くに、何やら陣中にはただならぬ空気が漂い、みなあわてて駆け回っている様子。思うに神都で想定外の変事が出来したのでしょう。敵軍の動きはまとまりがなく、いたずらに右往左往するばかり。綱を離れた馬を追うものとてなく、竈に火が残っていても放置しているとか。今夜あたり、大急ぎで退却すると判断してよいものと思われます」
「それで我らはどうすればよい?」
「もちろん機を逃さず追撃するべきです。今のジュレン軍に備えがあろうとは考えられません。敵は神都の変事に心を奪われて我々が見えていないのです。必ず大きな戦果が得られるでしょう」
これまでショルコウの言葉は何ひとつ外れたことがなかったので、諸将はことごとく順って、いつでも出陣できるよう用意を整えた。
夜半、果たしてジュレン軍は撤退に移った。灯火も用いず闇の中での退却だったが、アケンカム側は予測していたのですぐにこれに気づいた。オノレン口から軽騎兵が飛び出す。たちまち後軍を捉えて躍り込む。
「しまった! 気づかれていたか! 駆けろ!」
グルカシュが叫ぶ。ジュレン軍は顧みることなく、鞭も折れよとばかりに馬を走らせる。アケンカム軍は容赦なくこれを襲う。
ジュレン軍は結局大損害を出しながら、やっとのことで追撃を振りきった。アケンカム軍が早めに追撃を切りあげたおかげでもある。しかしジュレン軍は僅か数千騎を残すばかりとなってしまった。
「ヒスワ様、これでは還っても、ナルモント軍と戦うことはできませんぞ」
グルカシュが力なく言った。答えて言うには、
「城塞に入ることができればまだ戦になる。およそ草原の民は攻城は不得手だ。何とか入城するのだ。急使の話に由ると、城の北側には攻囲が及んでいないらしい。一気に飛び込むのだ」
二人は馬の脚が四本しかないのを悔やみつつ、道を倍にして駆け続け、明るくなるころにはついに神都を望むところまで辿り着いた。しかしそこで二人は我が眼を疑うことになった。
「こ、これは……」
「……ど、どこに三万騎がいるのだ?」
神都は何ごともなかったかのごとく佇立している。その周辺には三万騎はおろか馬一頭すら見当たらない。
「……よもや、すでに落ちたのではないでしょうな」
「判らぬ」
手勢を引き連れて恐る恐る城壁に近づいた。が、何も起こらない。城内はしんと静まりかえっている。二人は轡を並べて北門へ至った。グルカシュが叫ぶ。
「将軍の呼擾虎だ。ヒスワ様もおいでだ。開門せよ!」
すると城壁の上からそうっと衛兵が顔を出した。グルカシュ本人と知るや、あわてて開門の合図をする。ゆっくりと門が開く。ヒスワとグルカシュは辺りに気を配りながら、そろりと門をくぐった。出迎えた衛兵にヒスワが尋ねた。
「ナルモント軍に包囲されたと聞いたから急いで軍を返してきたのだが、これはいったいどういうことだ?」
問われた衛兵もただ首を捻って、
「いや、それが我々にもさっぱり……。朝になったらこのとおりで。昨日まではたしかにいたんです、地を埋めるほどの大軍が! 気がついたら、ええ、このとおりで……」
二人は顔を見合わせた。ともかく兵を城内へ入れると、ワラカンに形ばかりの報告をすませて軍装を解いた。