第四 六回 ④
ヂェベ勇名を争いて身を戦陣に虚しくし
ヒィ・チノ朋友を迎えて憂を河畔に解く
ヒィは唾をごくりと呑んで言った。
「……あれは、舟ではないか」
「見てのとおりだ」
「いったいあれだけの舟をどこから……?」
「ヒィ、しっかりしてくれ。舟はこの近辺だけにあるのではないぞ。ホアルン中の舟を掻き集めてきたのだ。これだけあれば数万の騎兵も渡河できるだろう」
ヒィはわなわなと身を震わせると、サルチンの手を握りしめて、
「恩に着るぞ! 君はナルモント部二十万の人衆を救った! この恩は言葉で言い尽くせるものではない!」
ツジャンとゾンゲルも拝礼して謝した。
「そこまでされると面映ゆい。ともかく急いで渡河の用意を」
ヒィ・チノは途端に心中に覇気が甦るのを覚え、サルチンを残して飛ぶように陣に戻った。早速、撤退の命が下される。陣中は俄かに慌ただしくなった。
ツジャンの進言で旗やゲルはそのまま残していくことにした。もちろん敵の目を欺くためである。
瞬く間に用意は整った。号令とともに整然と陣を離れる。その後は一路ズイエ河を目指す。次々と河畔に到着すれば、舟はすでに岸に繋がれ、いつでも乗り込めるようになっていた。兵衆はわっと歓声を挙げる。
サルチンはヒィの姿を認めると、満面の笑みを浮かべてこれを迎えた。ヒィが拱手して再度礼を述べると、
「三万騎というと壮観だな。礼なら私だけでなく彼らにも言ってくれ」
応じて目を遣れば、見知った顔が並んでいる。誰かといえばすなわちヘカト、カノン、コテカイの三人。再会を祝して挨拶を交わす。まさに義の契りは石よりも堅く、友の危機を知りては、進んで千里を越え来たるといったところ。
あまりの懐かしさにすぐにも語り合いたかったが、己の責務を思い出して全軍に命を下せば、諸将の監督の下、滞ることなく次々と上船する。サルチンらはおおいに感嘆する。
ヒィ・チノ自身はキセイ、ゾンゲルとともにサルチンの舟に身を預けた。全騎乗り了えると、千艘にも及ぼうかという数の舟が一斉に岸を離れた。天候は良好、流れも緩やかで、舟は滑るように走りだした。みな大喜びで、期せずして方々の舟から歌が流れだす。
「先ほどまで窮地に在ったのが嘘のようだ」
ヒィが江風を頬に受けながら呟く。傍らのキセイも久々の笑顔で頷いた。ナルモント軍を乗せた舟は、途中何ごともなく南岸へ着いた。サルチンらを誘うと彼らは喜んでともに下船した。舟を返してしまうと、進んで野営地を定める。
本営に諸将を集めて、サルチン、ヘカト、カノン、コテカイの四人を紹介する。酒食が運ばれ、小さな宴席が設けられた。諸将は代わる代わる礼を述べて、四人に酒を注ぐ。
ツジャン、ワドチャ、キセイ、モゲトは同じ年ごろのサルチンらと話が弾み、すっかり意気投合したが、それもそのはず、これも宿星の運り合わせであった。
ヒィ・チノはツジャン、サルチン、ヘカトに今後のことを諮った。まずツジャンが述べて言うには、
「すぐにオノレン口に向かうべきでしょう。我々が渡河したことは知られていないはず。突如敵の後背を襲えば大勝は疑いありません」
「なるほど。サルチンたちはどうだ?」
促せば、ヘカトが答えて言うには、
「もっと良い策がある」
「ほう、それは?」
きらりと眼を光らせて尋ねれば、
「ナルモント軍は連戦を経て疲れている。そこでなるべく最小限の労力で敵を退けたいだろう?」
「いかにも」
「つまり、戦って勝つ必要はない。敵を撤退させればよいわけだ」
「それで?」
ヘカトはすうとひと息吐くと、
「ならば西進して、神都を囲むのが上策だ」
ヒィ・チノはそれを聞いて膝を打った。
「おお、なるほど!」
「今、神都には数えるほどの兵しか残っていない。急にナルモント軍が現れたと知ったら、ヒスワはおおいにあわてるだろう。オノレン口などかまわず、急いで撤退するに違いない。留守を襲っているつもりが、逆に己の足許を脅かされているのだからな。奴らが兵を返したのを確認したら、包囲を解けばいい」
ヒィはおおいに喜んで、
「それはいい! あの奸人め、これで少しはおとなしくなるだろう。どうだ、ツジャン。ヘカトの策は」
「恐れ入りました。最上の策かと思います」
「よし、それで決まった! 明朝、陣を払って神都へ向かう」
翌日、ナルモント軍は意気揚々と神都を目指した。まさしく人を陥れんとすれば人に図られ、天兵何処かより現れて都城を囲むといったところ。
このことから奸人はおおいに肝を冷やし、飛虎は改めて名を顕すということになるのだが、果たしてヘカトの策は功を奏するか。それは次回で。