第四 六回 ③
ヂェベ勇名を争いて身を戦陣に虚しくし
ヒィ・チノ朋友を迎えて憂を河畔に解く
モゲトはおおいに怒って突撃の命を下さんとしたが、卒かに呼びかけるものがあって言うには、
「待て! 勅命を伝える、すぐに退け! ハーンはすでに撤退したぞ!」
見れば神行公キセイが手を振りつつ駆け寄ってくる。
「キセイ! ヂェベ殿が敵に辱められたというのに、このままおめおめと退き下がれようか!」
色を成して詰め寄れば、
「ハーンの勅命は命より重いものだぞ。さあ、戻ろう。この借りはいずれ日を改めて返そう」
モゲトはまだ怒りが治まらなかったが、やむなく撤退を命じた。その日は誰もが鬱々と楽しまず、黙々と軍務をこなすばかりであった。ヒィ自身も閉じ籠もって、ツジャンすら近づけずに思案に暮れていた。
ふと気づけばずいぶんと外が騒がしい。何やら言い争う声が聞こえる。
「ハーンは多忙ゆえ誰にも会わぬ!」
「うるさい! 取り次ぎもせずに何を言う。ヒィを救いに来たのだ」
「無礼な! 怪しい奴だ、捕らえろ!」
ヒィ・チノは眦を決して立ち上がると、ゾンゲルを呼んで、
「何ごとだ!」
「すぐに査べてまいります」
恐懼してあわてて駈けつけてみれば、一人の男が取り押さえられている。
「申し訳ありません。此奴がハーンに会わせろとて駆け込んできまして……」
その顔を見れば、男はきっと睨み返す。その眼光に尋常ならざるものを感じたゾンゲルは、そのまま待機するよう言い置いて急いで引き返す。報告に及べば、ヒィは僅かに考えたあとで、
「そいつの顔を見てやろう」
とてゲルを飛び出す。ゾンゲルはあわててあとを追う。ヒィがその場に現れると、姿を認めた男が呼びかけて言った。
「おお、ヒィ。ハーンになって驕ったか?」
その顔を見て、ヒィは愕然として叫んだ。
「サ、サルチンではないか!」
あわてて駈け寄ると、兵たちを叱り飛ばして、
「これは私の友人だ! 下がれ!」
みな恐懼して走り去る。ヒィは非礼を詫びると、その手を取ってゲルへ誘う。主客分かれて相対し、重ねて謝れば、
「もうよい。陣中のことだ、みな気が立っているのだろう。私も迂闊だった」
サルチンは袍衣の埃を払いつつ言った。ヒィは衛兵を呼んで、酒食の用意を命じた。ほどなく卓上が賑やかになったところで、改めて来意を尋ねると、
「君が北伐に出たのは聞いていた。そこへ神都軍東征の報を受けたのだ。となると狙いはナルモントの留守だろう。日ならずして君が危地に陥るに違いないと思って、こうして出向いてきたのだ」
それを聞いて溜息を吐くと、
「実のところおおいに困っている。留守の急を聞いて軍を返したのはいいが、肝心の舟を焼かれてしまった。幸いまだジュレン軍と対峙中との報が入ったが、いつ事態が変わるか判らん」
「ヒィらしくもない。弱気ではないか」
「今度ばかりは無策に舟が集まるのを待つしかない」
サルチンはそれを聞いて突然笑いだした。ヒィはむっとして睨みつける。
「笑いごとではない」
「いや、失礼。なるほど、はるばる来た意味があった。なあ、ひとつズイエ河畔まで駆けないか。君の憂いを解いてみせよう」
ヒィは戦時のこととて渋ったが、押されてついに立ち上がった。表に出ると衛兵が何ごとかと駈け寄ってくる。煩わしげに手を振ると、
「何でもない。今から少しだけ陣を離れる。そのまま待機してろ」
「しかし……」
傍らからサルチンが、
「将を幾人か連れていけばいい。ハーンが一人でうろうろしては心配するだろう」
そういうわけでツジャンとゾンゲルを伴うことにした。二人とも困惑したが、結局は従った。四人は駆けに駆けて、瞬く間にズイエ河を望む丘の上に着いた。
「ここに来れば君が憂いを解くと言ったが……」
サルチンは莞爾として言った。
「そうだ。君がもっとも欲しているものを差し上げよう。見るがいい!」
その指すほうを見て。ヒィら三人はあっと声を挙げた。何と流れを埋め尽くさんばかりの大量の舟が、ゆっくりと下ってくるではないか。
「ふ、舟だ!」
そう言ったきり、口を閉じることも、目瞬きすることも忘れている有様。
「ははは、驚いたか。憂いを解くと言った意味、解っただろう?」
その声で三人は漸く我に返る。