第 五 回 ②
インジャ往きて盟友を援け自ら母を迎え
セイネン窮して義君に投じ以て計を致す
ナオルは投降した兵を収め、再び軍を進めた。途中格別の話もなくアイルに帰り着く。早速カメルのゲルを訪れたが、そこにはかつての颯爽たる武人の姿はなく、病み衰えて愛息との再会を喜ぶ老人があるばかりであった。
あまりの変貌にナオルは思わず涙ぐむ。カメルは痩せて肉の落ちた手を差し延べると、咽びつつ言うには、
「おお、ナオル。よくぞ帰ってきた。わしはもう族長の任を果たすことができぬ。今日よりお前がジョンシを率いてくれ」
「はい」
カメルはさらに言葉を継いで、
「二人の兄ともよく協力してジョンシを守るよう」
ナオルはぎくりとして内心穏やかではなかったが、気取られぬよう答えて、
「もちろんです。どうか安心して養生してください」
やがてカメルが静かに寝息を立てはじめたので、そっとゲルを出る。すぐに人衆を集めて、厳かに族長の位に就くことを宣言する。人衆は何ごとか察したようだったが、特に混乱もなく集会は終わった。
インジャは、ジェチェンから預かったタロト部の兵に告げて、
「ハーンに命じられたとおり、ナオルは族長となった。だがいまだ人心は定まらぬ。私はしばらくここに残って補佐にあたるゆえ、ハーンにはそう伝えてもらいたい」
とて、三百騎みなに酒を振る舞うと、その日のうちに全員帰らせた。
こうしてインジャらはジェチェンの麾下から離れた。フドウ氏独立の一歩を踏み出したことになる。これよりのち、馳せ参じてくるフドウの遺民はさらに増え続け、ほどなく千戸に達するまでになった。
冬のある日のこと。ハクヒが言うには、
「若君、漸く落ち着いてまいりましたから、タムヤに在るムウチ様を迎えてはいかがでしょう」
インジャはおおいに喜んで、
「私もそれを考えていた。母はこの十年、一日千秋の思いであったろう。是非とも草原にお呼びしたい」
「では私とタンヤンが参りましょう」
「いや、私が自ら赴こう。タンヤンほか十騎もあれば十分だ。ハクヒには留守を委せる」
「よろしいのですか」
「タムヤはジェチェン・ハーンの街、心配は要らん。あとをよろしく嘱むぞ。母を連れてすぐに戻る」
インジャはただちにタンヤンら十騎を従えて発った。幸いにも道中格別のこともなくタムヤの城壁が見えてくる。先にタンヤンを遣って、インジャはゆっくりと進んだ。
タムヤは幼年期を過ごした街である。記憶は定かではないが、なぜかしら自ずと笑みが零れてくる。城門をくぐると喧騒が耳に飛び込んでくる。忘れていたはずの街の匂いがとても懐かしく、不思議な心地がする。
タンヤンがすでに待っていて、インジャを促す。学究庵(※エジシの家)の前では、エジシがこれを迎えた。礼を交わすと、
「ようこそおいでくださいました。ご母堂がお待ちかねですぞ」
案内されるまま奥へ入ると、一個の賢夫人が端座している。これぞインジャの生母ムウチ。およそ十年ぶりの再会であった。
母も子も込み上げる思いに胸が詰まり、かえって言うべき言葉も知らぬ有様。ただよくよく見つめ合うばかり。ムウチが漸く口を開いて、
「インジャか。まことに立派に成長なされた。もっと近くで顔を見せておくれ」
そっと躙り寄ると、ムウチは目を細めて、
「おお、亡き族長によく似ておる」
「母上、長らくお待たせして申し訳ありません。ジェチェン・ハーンの厚意により自立の目途が立ちましたので、お迎えに上がりました」
するとはらはらと流涕し、
「天王様のお言葉を信じて待っていて良かった。インジャがこうして迎えに来てくれるなんて……」
居並ぶもので涙を堪えうるものは一人としてなかった。その夜はエジシがささやかな宴を催して母子の再会を祝った。
翌日、ムウチを車に乗せてタムヤを発つ。二十里ほど行ったところで一群の騎兵に出会ったが、何とそれはハクヒが兵を出して迎えに来たものであった。
無事にアイルに帰ると、インジャはジョルチ部各氏およびマシゲル部に使者を遣わして、フドウ氏の再建を伝えさせた。
各氏の反応はまちまちで、ジョンシ氏と敵対するベルダイ右派、アイヅム氏はこれを認めず冷ややかな対応であった。一方、キャラハン氏やベルダイ左派などは使者を返してこれを祝した。マシゲル部やズラベレン氏は特に何の反応も示さない。
これを受けてナオルは、
「義兄、これで当面の敵が明らかになりましたぞ。アイヅム氏はともかくベルダイ右派は強敵といえましょう」
「いずれ雌雄を決するときが来よう。壮丁を鍛えておかねばなるまい」
兵の調練を行って、来たるべき戦に備えたが、その話はこれまでとする。