第四 五回 ②
ショルコウ弱を用いて急を知り令名を博し
ヒスワ歌を以て堅を計るも猛将を忿らしむ
そうこうするうちに日は過ぎ、ヒィ・チノからの捷報もないままひと月が経とうとしていた。
哨戒にあたっていた少年たちは、ショルコウに喜んでもらおうといまだに勇んで飛び出していたが、大人たちの気は少しずつ弛みはじめていた。ところが、一人の少年が青ざめた顔で戻ってきたのを境に、留守陣は大騒ぎとなる。
ショルコウは毎日欠かさず外に出て、急報を待っていた。その日も変わらずじっと西方を見つめていたが、一騎の少年があわてて駆け来たるのを見て、さすがに鳥肌が立った。
「ショルコウ様ぁ! 西方に軍影が、万を超える軍勢が現れました! ゆっくりと東へ向かっています」
「落ち着いて! どこで?」
「遠くです。あの、ドルグ川のずっと向こうです!」
「旗は見た?」
「赤地に金色の、何やら鳥のような……、すみません」
「いいえ、よくぞ知らせてくれました。戻って家の人に伝えて! 私は叔父様に報せるわ!」
少年は頷くと馬に鞭を入れて駆け去った。ショルコウは急いでゴオルチュのゲルへ行くと、挨拶もそこそこに言った。
「敵が、現れました」
「ん、何だと? 今度は何の遊びだ」
「遊びではありません。敵は西方五十里、進軍は緩やかですので攻撃は明日の早暁かと思われます。夜襲に対する備えをお願いします」
それを聞いたゴオルチュは驚愕のあまり混乱して、
「真か? わしを揶揄っているのではなかろうな。いったいどこの兵だ?」
「誰がこんな戯言を申しましょう。敵はおそらくジュレン部。真紅の地に黄金の鷹を配した旗です。ジュレン部は先年河西で敗れはしましたが、彼らなら一万騎を動員することもできるでしょう」
ジュレンの名を聞いて一瞬に青ざめる。そして言うには、
「まさか、お前は神都の出兵を予想していたのか!?」
「そうではありません。私も驚いているところです。よもや神都が兵を出そうとは……。とにかく迅く命令を! 女衆はすでに東へ走る用意を了えています。あとは叔父様が男衆をまとめるだけです!」
ゴオルチュはあわてて頷くと、とりあえず諸将を集める。
ショルコウはそこを辞すと、アイル中を駆け回って移動を指示した。もとより有事に備えていたのが功を奏して、一刻後には移動が始まった。それを確認してからゴオルチュのゲルに戻る。
見れば諸将が何やら揉めている。ショルコウは眉を吊り上げて一喝した。
「一刻を争うときに何を騒いでいるのですか!」
ゴオルチュは弱り果てた様子で顔を上げた。助けを求めて言うには、
「おお、実は……」
聞けば諸将は、敵の来襲を疑って動こうとしないとのこと。ショルコウは怒るより呆れて、
「ならば誰か確認に遣ったのですか」
「それはまだ……」
小声で言いかけるのを最後まで言わせずに、
「なぜ早く斥候を出さないのです。こうしている間にも敵軍は迫っています。座して憶測を述べ合っているときではないでしょう」
その語勢に押されて居並ぶ諸将は反駁することもできず、ついに一人の部将が立って確認に出向いた。その間、一旦解散して念のために武備を整えるということにした。ゴオルチュはショルコウを指し招き、不安そうに尋ねて、
「わしにはまだ信じられぬ。まことに来るのか」
ショルコウは決然たる調子で断言した。
「来ます。叔父様は先日、東原で大軍を擁するのはナルモントとセペートだけだとおっしゃいました。裏を返せば、攻撃に万を超える軍勢を必要とする相手もこの二者だけということ。小部族や野盗の討伐に万騎を用いる道理はありません。また我々は神都と同盟を結んだ間柄ではありません。それにも関わらず神都が軍を動かしたのですから、セペートのほうと何らかの密約があるのです。よって彼らは必ず来ます」
ゴオルチュは理路整然としたショルコウの意見にすっかり感心して、すっかりこの若い娘を恃む気になったので、
「では敵が来たら何とする。早急に逃げたほうが良くないか」
「いいえ、それは違います。敵はゆっくりと進んでいることから判るように、我らに備えがあろうとは思っていません。それを利用して反撃を加えるのが用兵の常道。四面に埋伏して敵を襲えばその動揺は量り知れず、必ずや破ることができましょう」
「そううまくいくだろうか……」
「もし我らが背を向ければ、敵は怒涛のごとく押し寄せます。家畜や老人を抱えたまま追いつかれれば、身動きもとれぬうちに殲滅されることは明白。そうなればハーンは怒り、アケンカム氏を決して赦しはしないでしょう。また天下にはその怯懦を嗤われることになります。叔父様は何の面目があって祖宗に顔を合わせるおつもりですか」
ゴオルチュはううむと唸って、ショルコウの言葉に順うことにした。ショルコウはさらに意を強くして言うには、
「ここで敵を退けられるか否かはすべて叔父様の決心次第です。諸将を説き伏せ、力を併せてアケンカム氏の名を汚さぬようはたらいてください」
うんうんと何度も頷いて、
「そのあとはどうすればよい?」
「一度敵を退けても、すぐに態勢を立て直してくるはず。我らは今度はその前に退かねばなりません。なぜなら数の上で不利だからです。奇襲が成功するのは一度だけ、追撃は構えだけに止めて、急いで退いてください。東方三十里を行けばオノレン口と呼ばれる要害があります。ここを固めれば敵は攻めあぐねるはず。じっと守っていれば、急を聞いたハーンが帰ってきます。そのときが前後呼応してジュレンを破るときです。ハーンはきっと叔父様を嘉賞されることでしょう」
そのとき、外が俄かに騒がしくなったので何ごとかと出てみれば、男衆と女衆が啀み合っている。中でも白夜叉ミヒチは、女衆の先頭に立って甲高い声で喚き散らしている。
聞けば、家畜を移そうとする女衆を、男衆が引き止めようとしているとのこと。するとショルコウが眦を決して言うには、
「行きなさい! 道理の判らぬ男の言うことを聞く必要はありません。ハーンの命令を忘れましたか。留守を無事に保つことが我らの責務。敵襲の恐れがあれば、家畜を移すのは当然のことです。もし敵が来なければ、いたずらに衆庶を惑わせた罪をこの身に負いましょう」
男衆はしぶしぶ引き下がり、女衆はわっと喜んで移動を再開する。