第四 五回 ① <ミヒチ登場>
ショルコウ弱を用いて急を知り令名を博し
ヒスワ歌を以て堅を計るも猛将を忿らしむ
アケンカム氏は、族長ベルン・バアトルを失ったあと嫡子が幼かったため、兄のヂェベが仮に族長の座に着いていたが、彼は三千騎を率いてヒィ・チノとともに渡河していた。
したがって留守の五千騎は末弟のゴオルチュがこれを統べていた。ゴオルチュは剛毅な兄のベルンとは異なり、兵事は不得手であった。それどころか怠惰で臆病な気性であったため、出征から外されていたのである。
ヒィが神都の出兵を予期していれば、もっと信頼ある将を残しただろう。これを見ても、ヒィが後方に何の不安も抱いていなかったことは明らかである。今にして思えば浅慮が悔やまれるが、「覆水盆に返らず」とはまさにこのこと。
ゴオルチュは遠征軍を送り出してから、特に考えがあるわけでもなく無為に日々を過ごしていた。よもや神都から一万騎もの大軍が迫り来るとは、露ほども思っていなかった。それはまた周囲の宿将たちも同じであった。
ところが、ここに独り不測の事態への備えを説いたものがあった。誰かと云えば、名将ベルンの娘ショルコウである。憂いを湛えてゴオルチュを訪ねると、
「叔父様に申し上げたいことがあって参りました」
ベルンの死以来ずっと閉じ籠もっていた姪の顔を見たゴオルチュは、相好を崩して言った。
「おお、ショルコウ。どうかしたのか?」
「はい。ハーンからお預かりしている家畜や女、子どもを東方へ移していただきたいのです」
「何故じゃ」
意表を衝かれて問い返せば、
「我がナルモントの兵の大半は北原にいます。今、大軍をもって攻められたら、いかがなさるおつもりですか。おそらく半日を経ずして虜囚の憂き目を見ることとなりましょう。そうなればハーンは帰るところを失い、我が部族の名は永久に草原から消えてしまいます。それでは祖霊に合わせる顔がありません」
これを聞いたゴオルチュは、呵々大笑して言った。
「要らぬ心配をする奴だ。どこの誰が大軍を率いて攻めてくるというのだ。東原で数万騎の大軍を擁するのは、ナルモントを除けばセペートだけ。そのセペート部は河北でハーンと戦っている。留守を襲う余力などあるはずもない」
ショルコウは顔色ひとつ変えずに、
「我が軍は五千。これを討つのに数万もの兵は要りません。およそ一万騎もあれば容易に破れましょう。しかも我が軍の精鋭はハーンとともにあります。加えて家畜や女、子どもを大勢抱えているのです。警戒なさってください」
ところがゴオルチュはにやにや笑いながら、
「警戒か。しかしどこに一万騎があろう。もしまことにそんな敵が現れたら驚くであろうなあ。天から降ったか、地から湧いたか……」
「私はまじめに申し上げているのですが」
「ははは、怒るな、怒るな。その綺麗な顔で凄まれたら寒気がするわ。承知した、宿将どもに諮ってみよう」
「よろしくご賢察ください」
そう言って一礼して辞す。しかしゴオルチュがこれを取り上げることはなく、宿将たちにも何も知らせぬまま数日が過ぎた。ショルコウは、叔父は恃みにならぬと考えて、密かに部族の女衆を集めて言った。
「そもそも草原にあっては『遠くに眼を持たざるものは亡び、近くに耳を有たざるものは失う』と申します。これは常に外敵に備えよという俚諺です。しかしゴオルチュ殿は遠くに眼を持たず、近くに耳を有たず、備えを怠っています。これではまさに『狼穴に午睡する』ようなもの。いつ命を落としてもおかしくありません。ここは我々の手で留守を守らねばなりません」
そこに一人の女が進み出た。ショルコウとは同じ年ごろの娘。その人となりはといえば、
身の丈は七尺少々、鴉のごとき黒髪は艶やかに光り、璧のごとき玉肌は透けるように白く、目は細く、唇は薄く、腰は柳のごとく、尻は梨のごとく、名花とは称されずともどこか妖嬈(注1)たる女人。槍を執っては武人をも驚かすところから、付いた渾名は「白夜叉」、名をミヒチと云う。
そのミヒチが尋ねて言った。
「しかし我々は女衆、どのようにすればよいのさ?」
ショルコウは答えてみなに向かって、
「やはり俚諺に『力が無ければ智を用いよ。智が及ばざれば身を避けよ』と謂います。家畜や老人、幼児は東方へ逃れるべきです。私はみなさんにお願いして、いつでも移動できるよう準備を整えておいていただきたいのです。もし不慮の敵が現れた際には、速やかに逃げてください。また移動に時のかかる家畜は、理由を設けて徐々に遠くへ移していただきたい」
「ショルコウの言うことなら間違いないよ。そのとおりにしようじゃないか」
ミヒチがすぐに賛意を示す。そもそも女衆は常々ショルコウを尊敬していたので一も二もなく承知すると、早速その日から準備に取りかかった。
少しずつ家畜や老人が動きはじめたが、家ごとに女たちが理由を拵えてことを行ったので、男衆は訝しく思いつつも咎めることはなかった。
次に気の利いた少年を集めて、
「みなさんには私の眼になっていただきたい。足の速い馬に騎って、毎日行けるかぎり遠くまで駆け、もし大軍の東へ向かうのを見つけたら大急ぎで報せてほしいのです。家のことは母に、姉に、妹に委せなさい。私から言っておきます」
少年たちもショルコウを慕っていたので喜んで了承すると、勇躍してはたらくことになった。こうしてショルコウは、少年を使って「遠くに眼を持ち」、女衆を用いて「近くに耳を有つ」と、またゴオルチュを訪ねた。
「叔父様、ご機嫌はいかがでしょう」
「可もなく不可もないといったところだ。ところでショルコウ、最近子どもを集めて何かやっているそうだが……」
「遠駆けの訓練をしております」
「勇ましい遊びだ。女子のすることではあるまい」
「女や子どもとはいえ、一朝ことあらば貴重な戦力。敵が現れたらお教えします」
「ははは、お前はおもしろい奴だ」
ゲルを辞すと、老将ムバイを訪ねて事の次第を打ち明けた。ムバイは最初は怒ったが、やがて得心して密かに周辺の守備を強化した。
とはいえたかが五千騎、ムバイは改めて防備の手薄にならざるをえないのを知り、ショルコウの炯眼に驚いた。ただ彼も半ばは敵の存在を信じていなかったので、せいぜい野盗の備えにはなるだろうぐらいにしか考えなかった。
(注1)【妖嬈】艶めかしく美しいこと。