第四 四回 ④
鎮氷河エルゲイ・トゥグに敗れ佯り遁走し
神箭将カラ・トゥンに伏せ鮮やかに撤退す
「一気に蹴散らせ!」
ケルン・カーンが叫ぶ。またもや大喊声。と、不意にサトラン軍が反転、騎射の勢いも凄まじく攻めかかってきた。
「小癪な! 包み込め!」
一旦押し戻された格好のセペート軍は、数を利して包囲を試みたが、サトラン軍はさっと離れて逃げていく。ケルンは歯ぎしりして再度これを追う。
それが数度繰り返された。サトラン軍は殿軍としての務めを見事に果たしていたが、さすがに疲労の色は隠せない。ツジャン自身も肩に矢傷を負った。
「ハーンはすでにカラ・トゥンを越えただろうか。我らの任務は了わった。ならば潔く散るのみ」
ツジャンは最後の突撃を敢行するべく馬首を廻らせた。と、彼の決死の意図に反して、セペート軍はサトラン軍を無視するように方角を変えた。
「ツジャン様、いかがいたしましょう?」
「ううむ」
唸っていると、一騎向かってくるものがある。訝しく思って見れば、何と金杭星ケルン・カーン。サトラン軍を睥睨して叫んで言うには、
「殿軍の将は誰か!」
応じてツジャンが進み出て言った。
「サトラン氏の副将ツジャンと申す。貴殿はケルン・カーンとお見受けしたが」
「いかにも。なるほど、お主が名高いツジャン・セチェンであったか」
「我らを置いて去るとはどういう了見か」
ツジャンが問えば、
「勇者には敬意を払う。実に見事な戦ぶりであった。我らはお主を追うまい。道を易えてチノを追う」
そう答えて馬首を廻らす。
「ツジャン様、これはいったい……」
「ふうむ。見逃されるならそれでよかろう。我らは南へ去る。それにしてもケルン・カーンとは不思議な奴だ」
サトラン軍は完全に戦場から離脱し、南方へと転じた。
セペート軍はヒィ・チノを追って夜も休まず駆けに駆けて、翌朝にはその最後尾に喰らいついた。ケルンらはそれを追い散らすと、さらに速度を上げる。こうしてついにカラ・トゥンに至った。前方にナルモントの小隊が踏み止まっている。
「ふん、蹴散らせ!」
号令一下、猛禽が獲物に襲いかかるように攻めかかる。もちろん支えきれるはずもなく、蜘蛛の子を散らすように逃げ去る。セペート軍はさらに調子に乗って先へ進んだ。
全軍の半ばがカラ・トゥンを越えようかというときであった。卒かに金鼓が轟いた。と、横合いから喊声を挙げて一群の騎兵が湧き出てきて、セペート軍の中央に割って入る。これぞ病大牛ゾンゲルの一隊。
「ふ、伏兵だ!」
狭い道で前後に分断されたのでおおいにあわてる。しかも昼夜兼行で追ってきたために疲労が激しく、森の中で待機していた新手の猛攻に途端に浮足立った。
先頭を行くケルン・カーンは、後方が急に乱れた原因が判らずにいたが、伝令によってことを知ると、
「どうせヒィ・チノの苦しまぎれの一手、あわてずに挟撃すればよい」
そう言って手勢を率いて反転しようとした。と、前方の丘で銅鑼が鳴り響く。ナルモント部の旗が一斉に林立した。
「待っていたぞ、蛮族め!」
これぞナルモント部の誇る先鋒、モゲト。ケルンは怒りに顔を紫に染めて言うには、
「小賢しい鼠め!」
鋼の棍棒を手に、モゲト目がけて一直線に駆け上がる。数千騎がこれに続く。ナルモント軍は初めは弓で、次いで槍を構えて応戦し、たちまち乱戦となった。
さて、追撃の後軍を担っていたのはズベダイであったが、ゾンゲルの軍勢に行く手を阻まれると、不利を覚って早々に退却の命を下す。
かくしてケルンは腹背に敵を受けることになった。しばらく奮戦していたが、支えきれずに兵をまとめて退く。モゲトも追撃することなく、ゾンゲルと軍を併せて本軍に合流した。
結局、両軍ともに大きな損害を出して痛み分けの形となった。ヒィ・チノは休む間もなく撤退を命じる。
一方のケルン・カーンは憤懣やる方なく、再追撃を要請した。エバは迷ったが、ドブン・ベクが言うには、
「たしかにヒィ・チノは戦巧者ですが、大局を眺めれば我らの優位は動いておりません。留守陣がジュレン軍に蹂躙されているにも関わらず、ヒィ・チノの前にはまだ千里の道程が控えており、さらにズイエ河をも越えねばなりません。手を弛めずに追えば、彼の損耗は激しく、ついには河を背にして我を迎えることになります。その時分には兵衆も異状を察して動揺しはじめるでしょう。これをもってこれを覩れば勝利は動かしがたく、ただ一度の蹉跌(注1)で諦めるのは早計かと存じます」
エバは大きく心を動かし、再び追撃軍を編成した。
そのころにはヒィ・チノはツジャンと合流を果たし、モゲトを先行させて舟の確保を命じた。またキセイを留守に急行させるよう手配して道を急いだ。
さてここで話はところを変えて、ナルモントの留守陣。そもそもこれを預かっていたのはアケンカム軍五千騎、主将はベルン・バアトルの末弟ゴオルチュである。
これを呼擾虎グルカシュを将としたジュレン軍一万騎が襲ったわけだが、まさに勝ちを収めるには奇襲に勝るはこれなく、狼の居ぬ間に巣を荒らすといったところ。この戦で一個の華が才幹を顕すことになるのだが、果たしてジュレン軍の奇襲にアケンカム軍がいかに対処したか。それは次回で。
(注1)【蹉跌】つまずくこと。失敗し行きづまること。挫折。