第四 四回 ③
鎮氷河エルゲイ・トゥグに敗れ佯り遁走し
神箭将カラ・トゥンに伏せ鮮やかに撤退す
これには誰もがあっと驚く。ヒィも上天を仰いで、
「ジュレン部だと!? そうか、奴らの策はこれか! 抜かったわ」
ツジャンが身を乗り出して、
「敵兵の数は?」
「一万騎ほどかと……」
陣中は急に慌ただしくなる。そこにさらに報告が入る。
「東方にセペート軍が現れました! 地を埋めるほどの大軍です!」
ヒィは立ち上がって、
「してやられたぞ。まさか神都と密契があったとはな」
「どうしますか」
モゲトが切迫した調子で聞けば、
「決まっておろう、まずは目の前の敵を討つ! あわてて退いても追撃を喰らうだけのこと、ここは総力挙げて敵軍を退ける。後方の心配はそれからだ!」
「しかし留守陣には僅か五千騎があるのみ。早くせねば帰る地を失います」
「将があわててはならぬ。よいか、兵にはこのことは伏せておけ。将にして動揺し、兵衆を惑わしたものは厳罰に処す! よく肝に銘じておけ!」
そう叫ぶや、即座に馬上の人となる。諸将も兵を叱咤して出陣の準備を急ぎ、陣の収容もそこそこにとりあえず集結する。出陣の銅鑼太鼓が打ち鳴らされ、数万騎が順次出立する。まずはキセイが五百騎を従えて斥候として先行する。
次いでモゲトの前軍六千が疾駆する。ある丘の上を占めると、キセイの帰還と中軍の到来を待った。ほどなくキセイがものすごい勢いで戻ってきた。
「敵の数は数万。ケルン・カーンを先頭に、全軍揃って押し寄せてくる。まもなく前方に砂塵が見えよう」
「承知した。ハーンに伝えてくれ」
キセイは頷くと、瞬く間に後方に駆け去る。モゲトはとりあえずその場に留まって次の指示を待つことにした。
ヒィは報告を受けると、右翼からツジャンを呼んで諮った。ツジャンが言うには、
「エバは、ジュレンの出兵を知って攻め寄せてきたもの。ゆえに我々がすぐに退くと思っているでしょう。それを利用するのが上策かと」
「なるほど、それで?」
「西南に十里ほど行くと、カラ・トゥンと呼ばれる森があり、伏兵には格好の地です」
それを聞くと即座に計を悟り、ゾンゲルを呼んで何ごとか耳打ちした。喜んで退くと、一隊を率いて去る。また諸将が中軍に集められ、それぞれ策を授けられる。それがすむとナルモント軍は速度を上げて前軍に追いついた。
モゲトがそれを知って駆けつける。
「まもなく敵が参りましょう」
「おお、ご苦労。これより全軍、丘を背にして布陣する。モゲト、お前は迷わず突撃せよ。奴らに奸智を弄する隙を与えてはならん。そして合図があれば、有利不利に関わらずすぐに退け。西南指して駆け続けよ」
「承知」
ナルモント軍は指示に従って布陣を了えた。何も知らぬ兵衆は今日こそセペート軍を叩き潰そうと闘志を燃やしている。
やがて敵騎の巻き上げる砂塵が見えた。大軍である。みるみるその威容が全貌を現したかと思うと、ケルン・カーン率いる前軍が進み出た。中軍以下は、陣を整えはじめる。
金鼓が轟く。同時にモゲトのタラント軍が突っ込んでいく。ケルン・カーンがこれを迎え撃ち、たちまちのうちに入り乱れて激しく戦いはじめた。エバ・ハーンはドブン・ベクに尋ねて言った。
「奴らの戦意は凄まじい。よもや留守の急を聞いておらんのではなかろうな」
「それはありえません。兵に知らせてないのでしょう。ヒィ・チノは内心帰還を焦っているはず。押していればいずれ浮足立つでしょう」
エバはおおいに満足して、金鼓を打ち鳴らさせた。大喊声が挙がり俄かに勢いづく。それに押されたかのようにモゲトの攻勢が衰えた。
「オルサ軍を投入しろ。タラントの足が鈍った」
ヒィ・チノの命をキセイが即座に伝える。再び金鼓が轟いて騎兵が繰り出される。こうして戦うこと一刻以上に及んだ。
セペートは勝利を確信して攻め立てる。一方、ナルモントの将はいつ退却の合図があるか気になって、徐々に勢いを失っていく。そこでヒィ・チノはついに決断を下した。
「もう少し戦ってからと思ったが、限界だ。退却の合図を!」
銅鑼が打ち鳴らされると、諸将はほっとして退きはじめる。エバ・ハーンは手を拍って、
「見よ、退いていくぞ! 追撃だ、この機を待っていたわ!」
大喜びで叫ぶと、激しく金鼓を鳴らさせた。応じて大喊声。全軍追撃態勢に転じて、どっと追い立てる。あまりの攻勢にナルモント軍は一時に脆くなる。ヒィ・チノはそれを見て、
「やはりな。相当の被害を心せねばならぬわ。殿軍はツジャン以外には任せられん。キセイ、伝えよ!」
キセイを送り出すと、中軍をまとめて退却に移る。
「カラ・トゥンをひと息に駆け抜けるぞ。それまで足を止めるな!」
ナルモント軍は一斉に退却に転じる。独りツジャンの兵だけが丘の上に布陣して敵軍を待つ。追撃の先頭はもちろん金杭星ケルン。兵を叱咤して一挙に丘を登ってくる。
「放て!」
ツジャンの号令に応じて、無数の矢がケルンの軍を襲う。
「おお、敵はまだ戦意を失ってはいないぞ」
少しく驚いて思わず手綱を引く。そこへサトラン軍がわっと喊声を挙げて丘を駆け下る。そしてケルン軍を押し戻したかと思えば即座に退く。
「きっと名のある将が殿軍を務めているに違いない」
そこに後続の部隊が続々と到着する。ケルンは力を得て、再び兵をまとめて攻め登る。
ツジャンもまた矢で応戦したが、今度は敵のあまりの衆さに、丘を放棄して逃げだした。セペート軍もこれを追って丘を越える。ツジャンは巧みに兵をまとめて一糸乱れず退いていく。