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草原演義  作者: 秋田大介
巻三
174/783

第四 四回 ②

鎮氷河エルゲイ・トゥグに敗れ(いつわ)り遁走し

神箭将カラ・トゥンに伏せ鮮やかに撤退す

 ヒィ・チノは頷くと、前方を睨みつつ(カラ)を下していく。


(ブルガ)左翼(ヂェウン・ガル)は、ケルンの苦戦を見て、知らぬ間に進み過ぎている。(くさび)を打て」


 かくしてあれよあれよという間にセペートの(デム)は突き崩されていく。エバ・ハーンが気づいたときには、すでに陣立(バイダル)は半壊していた。


「謀られたわ! やむをえぬ、こちらの右翼(バラウン・ガル)は無傷だ。かの前軍(アルギンチ)の側面を突け! その間に中軍(イェケ・ゴル)は後退する!」


 銅鑼が鳴り響き、伝令が走った。ズベダイが顔色を変えて、


「ケルン・カーンが前線で奮闘中です! お助けしなければ!」


 エバは「かまうな!」と叫びかけたが、考え直して言った。


「なるほど、北の異族(ホイン・カリ)の武力は惜しい。今後もその(クチ)を利用するには多少の損害はしかたあるまい」


 そこでズベダイに左翼の兵を掻き集めて、ケルンを救うよう命じた。


承知(ヂェー)婿(グレゲン)殿を置き去りにしては、ハーンの威信に傷が付くところでした」


 そう言って一軍を率いて駆け去る。指示を受けたセペートの右翼がどっと繰り出すと、ヒィ・チノは、


「ふふふ、一矢報いてというところか。その半端な選択が命取りよ。我が左翼はこのときを待っていたのだ。全力をもって突出する敵の右翼を撃て! 前軍は側面にかまわず進め!」


 金鼓が轟き、左翼が喊声を挙げて突っ込んでいく。


「さあ、いよいよ我らだ。敵が退くなら、全軍挙げてこれを叩く。中軍は前へ! 我に続け!」


 そう宣するや、ヒィ・チノは自ら得物を(ガル)に馬腹を蹴った。みなわっとこれに続き、雪崩のごとく敵陣に襲いかかる。一度に数万の騎兵が動いたため、大地(エトゥゲン)は鳴動し、喊声は(チフ)(つんざ)く。一人一人の兵に鬼神(チュトグル)が憑依したかのごとくである。


 この一斉攻勢にエバは(エレグ)を潰して、


「ナルモントの強さはこれほどであったか。遅足(ブギャア)(注1)に退いていては壊滅は(まぬが)れぬ! 疾駆(ダブヒア)にて離脱(アンギダ)せよ!」


 そう言うと、誰よりも先に馬首を(めぐ)らせた。それを見た中軍はどっと浮足立ち、みな我先に(ノロウ)を向けて逃げだす。ナルモントの精鋭は容赦なく揉み立てる。


 一度動きだしたセペート軍の右翼は、急に退くこともかなわないままナルモント軍の左翼に突き崩され、もはや戦列(ヂェルゲ)を成していない。さらにヒィの中軍が突撃してきたので、まるで糸を抜かれた(デール)のような有様。


 ズベダイは数千騎をもってケルンを窮地から救い出すことに何とか成功した。ケルンは厚く(カリラ)を述べると、ともにエバを追って戦場からの離脱を図る。


 そのエバ・ハーンは逃げに逃げて、追いついた側近(コトチン)手綱(デロア)を引き止めるまで、後方には目もくれぬほどの狼狽ぶり。およそ半日の戦闘(カドクルドゥアン)で、かくも惨憺たる敗戦を喫したことをしきりに悔いたがどうにもならない。数十里も退いて後続を待つ。


 激しい追撃を振りきって、その(ウドゥル)のうちに合流(ベルチル)したのは約三万騎であった。ケルンとズベダイもやっとの思いで辿り着いたが、ケルンが言うには、


「今回は一杯喰わされましたが、次こそひと泡吹かせてご覧に入れましょう」


 その勇壮な誓いにエバはおおいに喜んだ。ドブンが言った。


「ヒィ・チノは勢いに乗ってさらに追ってくるでしょう。しかしそれはある意味好都合。ナルモントの本軍を河北の奥に導けば導くほど、奴らは滅亡に近づきます」


 この言葉(ウゲ)に愁眉を開いて、


「そうか、ジュレン軍か」


そうです(ヂェー)。ヒィ・チノは初戦の勝利に(おご)って、どこまでも追ってくるに違いありません。さすれば留守(アウルグ)の急を聞いてもすぐには兵を返すことができず、瞬時(トゥルバス)に苦境に立たされましょう。となれば、我々は適当に戦いながら、ヒィ・チノを徐々に北へ北へと連れていくことこそ上策と言えましょう」


 エバはドブンを賞し、さらに次の決戦の(ガヂャル)を求めて移動を命じた。


 一方、勝利を収めたヒィ・チノは、頃合いを見て追撃を中止した。モゲトが(いぶか)って問えば、答えて言うには、


「ダコン・ハーンの教訓を忘れたか」


 これでみな得心し、その日は高地(ウンドゥル)(トイ)を張って兵を休めた。


 翌日からまたエバを追って北へ転戦すること大小併せて七度、しかし毎回セペート軍は少し戦っては退くので、さしたる戦果も得られぬままひと月が過ぎた。


「臆病風に吹かれたか。逃げてばかりではないか! ついに鎮氷河の名も(コセル)に堕ちたわ!」


 モゲトが苛立って吐き捨てた。軍議の席上である。ヒィ・チノがツジャンに尋ねて言った。


「何か策があるのではないか。あまりに容易(アマルハン)に退きすぎる」


「私もそれを考えておりました。もしかすると別働の兵があって退路を断つ心算かもしれません」


 途端にキセイが(ダウン)を挙げて、


「それはない! 四方に大量の斥候(カラウルスン)を放っておりますが、そういった報告は受けておりません。間違いありません」


 ヒィは腕を組んで、


「いずれにせよ斥候の数を増やせ。もしかしたら、無策に我らが(ソオル)()んで退くのを待っているだけかもしれん。だが諸将に告げておく。戦局が有利なうちは決して退くことはない。徹底して仇敵(オソル)を叩くのだ」


 諸将はおうとこれに応え、戦意を新たにした。ちょうどそこに留守陣より急を報せる早馬(グユクチ)が来たとのこと。一同は(いぶか)しく思いながらこれを迎えた。


「何ごとか!」


 ヒィが問い(ただ)すと、平伏して言うには、


神都(カムトタオ)が、ジュレン部が兵を発し、留守陣に迫っております! 急ぎ兵をお返しくださるようお願いします!」

(注1)【遅足(ブギャア)】馬を走らせる速度。遅い順に、①歩き(アルハー)→②遅足(ブギャア)→③跑足(ショグショウ)→④跑足(ハティラー)→⑤疾駆(ツォギオ)→⑥疾駆(ダブヒア)

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