第四 四回 ①
鎮氷河エルゲイ・トゥグに敗れ佯り遁走し
神箭将カラ・トゥンに伏せ鮮やかに撤退す
ナルモント部とセペート部が激突したエルゲイ・トゥグは、河北の奥に広がる大平原である。両軍併せて十万近い騎兵も悠々と展開できる広さがあり、これまでも両部族の会戦が幾度となく行われてきた。
先年、ヒィの父であるダコン・ハーンが落馬したのも、この地から北へ向かって敵を追撃する途中のことであった。
それゆえかナルモント軍はますます復讐に燃え、士気は上天を衝かんばかり。喊声を背に進み出たモゲトも、奮い立って敵陣を睨みつける。
一方、前回の戦では敗れ、ダコンの負傷に救われたセペート軍も、今度こそは目にもの見せてくれようと一兵卒に至るまで勇躍していた。
しかも先鋒には北方の雄ケルン・カーンを立てて態勢は万全、なおかつ上将たちはジュレン軍がヒィ・チノの留守を襲うことを知っていたので、余裕と自信を持って決戦に臨んでいた。
戦機は熟して両先鋒はほぼ同時に馬腹を蹴り、それぞれ麾下五百騎を従えて相手に襲いかかっていった。あとに続く中軍もじわじわと前進して戦局を窺う。双方ともに正面から挑む構え。
モゲトとケルンは一直線に馬を飛ばし、誰よりも先に得物を交えた。かたや槍、かたや鋼の棍棒。がーんと濁った音が響く。両者得物を握り直し、さらに一合、二合と打ち合ったが、なかなか勝負がつかない。それを眺めたヒィは、
「ほほう、モゲトでは勝てぬか。今は互角に見えるが、敵のほうが一枚上手だ」
そこで銅鑼を鳴らしてモゲトを退かせる。それを見てケルン・カーンも自陣へ戻れば、大歓声がこれを迎える。
「ふふん、喜んでいるがいい」
ヒィ・チノはにやりと笑って右手を挙げた。応じて金鼓が鳴りわたり、前軍がどっと押し出す。
射程に入るや、一斉に矢をつがえて次々と放つ。無数の矢がテンゲリを覆ってセペート軍を襲う。セペート軍ももちろん応射して、そうするうちに徐々に距離が詰まっていく。
「ほう。鎮氷河の名は虚名ではないな。こうしている間にも見よ、我が軍の隙を狙って前軍が動いている。弛みを見せれば、ケルン・カーンが突撃してくるだろう」
ヒィが傍らのキセイに言った。キセイは何も言わずにその次の言葉を待つ。
「しかしケルンが動けば、敵にも綻びが生まれよう。右翼にそれを伝えよ」
「承知」
とて、ぱっと駆け出す。右翼はサトラン氏の兵、主将は族長のジョブン・ドゥカだが、実際に指揮を執るのは副将のツジャン・セチェン。キセイは瞬く間に陣中を駆け抜け、ツジャンに会って言うには、
「ケルンが動けば敵軍に綻びが生まれる、とのことだ」
ツジャンはたちまちその意を汲むと、部将に何ごとか伝えた。ナルモント軍の右翼が微妙な変化を見せる。だがそのために全軍の動きから僅かに遅れた。
遥かにそれを望見したエバ・ハーンは、
「見ろ、やはり戦を知らぬ小僧どもよ。右翼の戦列が乱れたぞ!」
即座に金鼓を鳴らさせた。それを聞いたケルン・カーンが叫んだ。
「よし、敵の乱れを突け!」
自ら真っ先に飛び出す。二千騎があとに続く。左翼もぐっと押し出してこれを援護する。
「我が婿が、敵陣を寸断してくれよう。さすれば全力を投入してこれを破る」
エバはそう算段して高らかに笑った。一方のヒィ・チノも、ケルンがまっしぐらに突っ込んでくるのを見て、
「来たぞ、阿呆が! 右翼はツジャンに委せておけばよい。タラント軍を敵が動いたところに捩じ込め!」
ナルモント軍からも金鼓の合図。それを耳にしたエバ・ハーンは、
「さては右翼が崩れるとて焦ったな。動けば動くほど全軍が乱れるぞ。どうやって繕うかな、ふふふ」
ところが予想に反して、ナルモントの前軍はケルン・カーンの鋭鋒を無視して、これも一直線に突撃を敢行してきた。タラント氏の六千騎である。中軍もかまわずそのまま前進を続けている。
「何と、右翼を棄てて前進してくるとは。奴はまことに戦を知らぬのか!」
ややあわてて金鼓を打ち鳴らさせ、タラント軍を迎え撃つべく兵を動かす。タラント軍は勇将モゲトを先頭に、落石のごとき勢でこれを蹴散らしていく。エバは次々に指示を出して部隊を投入する。
「所詮、一時の勢いだ。一所が崩れれば、それは全体に波及しよう。さればあわてて退くに違いない」
エバはそう呟いたが、案に相違してナルモントの右翼は崩れない。それどころか巧みに兵を動かして、知らぬ間に堅牢な陣に変わっている。これも知将ツジャンの采配に依るものであるが、もちろんエバは知らぬこと。
ケルン・カーンは厚い守りに阻まれて、それ以上進むことができなくなった。エバは声を嗄らして叫んだ。
「婿殿は何をしているのだ!」
ヒィ・チノはじっと馬上で戦局を眺めていたが、言うには、
「およそ兵を用いる常として、一旦己が有利と思い込むと、判断を改めるのは難しいものだ。殆ういかな、殆ういかな。鎮氷河は陥穽に落ちた」
振り向くとキセイが控えている。
「キセイ。戦においては、変を極め、勢を形して始めて利を得る。然るのちに利に溺れず、権に驕らずして始めて勝を収めるものだ」
「ハーンのおっしゃるとおりです。エバ・ハーンは必敗の地に立ちました」