第四 三回 ② <ケルン・カーン登場>
ドブン・ベク奸人を説いて盟約を締結し
グルカシュ囚徒を屠りて将印を拝受す
ヒスワは卒かに立ち上がると、冥府から湧き上がるような低い声で笑いだした。ドブンがさては狂ったかと身構えたほどの妖気迫る笑い。やがて言うには、
「かつて余は西原に赴いて今のお前と同じようなことを説いた。結果は無残に終わったが、あのとき余は確かに天下をこの手に攫みかけたのだ。お前の語りたる言葉で再び天下の尾が見えた気がする。よかろう、我がジュレンは、セペートと盟を結ぼうではないか!」
ドブンはほっとして謝辞を述べると、逃げるように退出した。宮城を出ても震えが止まらない。呟いて言うには、
「何と気味の悪い奴だ。目覚めさせてはいけないものを目覚めさせたのではないか。かつて草原に大乱を招いた男だ、尋常に量り知れるものではない」
あわてて北原に帰って復命をすませたが、ヒスワの毒気に中てられたのか、高熱を出して寝込んでしまった。
一方のズベダイも首尾よく任務を果たしたが、エバ・ハーンは何とも複雑な心境。嫁入りの準備が慌ただしく進み、来春にはケルン・カーン自らセペートに来訪することになっていた。
アラクチュのまったく知らぬ間にことが進められていたため、それを聞いたときの狂乱ぶりたるや筆舌に尽くしがたく、エバはまた胸を痛めた。
「かくなる上は、必ずやナルモントの小僧に地を舐めさせてくれるわ」
そう自らに言い聞かせることで悲憤を紛れさせる。
さまざまな陰謀が渦巻くうちに冬に入った。各部族はそれぞれ寒を避け、辛抱強く春が来るのを待つことになるが、くどくどしい話は抜きにする。
そして春。凍っていた土も漸く緩みはじめた。草原の民は挙って春の到来を喜び、我先に平原に飛び出した。
ケルン・カーンは、特に春を待ち望んでいたものの一人である。彼らの住む北の大地は春の訪れが遅い。
北原の民はいわゆる草原の民とは習慣を大きく異にしている。すなわち草原では遊牧を主な生業としているが、彼らのそれは狩猟である。ゆえに暮らしは厳しい。冬も長く、弱った老人や病人が春を迎えることはまずないと言ってよい。
壮丁、強者を重んじることは草原以上である。食事はもとより、あらゆるものごとにおいて強者が優先され、次いで子ども、女、老人と続く。
病人は遠方に移され、もはや顧みられることはほぼない。ゆえに彼らの寿命は、草原の民とはおよそ十年の隔たりがある。
彼らはゲルには住まず、丘陵の東南に横穴を掘って居とする。これを穴居と云う。だから草原の民のようにたびたび居を移すことはない。数年に一度、狩りの獲物を索めて移動することがあるくらいである。
狩猟を生業とするだけあって兵はみな弓射に卓越し、寡兵ながら精鋭が揃っている。その首長はカーンと称され、幾つかの氏族をまとめている。カーンは神の僕であり、侵すべからざる神聖な存在である。
現在のところ、北原には数人のカーンがある。ケルンは中でももっともセペート部に近い西南よりの一帯を治めていた。その人となりはといえば、
身の丈は七尺半、大鵬の翼を眉とし、大鵬の眼を眼とし、心は雄にして胆は大、骨健やかにして筋強く、凛々として威風あり。その性たるや豪放磊落、蛮族の王なれど白き心の主にて人衆に敬慕されたる若き王、人は称す、「金杭星(北極星の意)」と。
彼らには独自の宗教があり、火と森を特に神聖視している。巫者は絶大な権力を誇り、何ごとも彼らの占いで決する。カーンといえども巫者には逆らえない。
儀式では盛大に火が焚かれ、巫者は依代となって天地の精霊の言葉を伝える。ちなみに巫者は世襲である。
そしてもちろん彼らは文字は持たない。口承による独自の神話があり、彼らなりに天地の成り立ちや部族の来歴を解している。
貨幣の知識もなく、すべて交換か強奪に拠る。しかし概ね彼らは平和な民族で、自ら草原を侵したことはほとんどない。
ただ彼らの地を侵したものは徹底して排除しようとする。特に禁忌の森に足を踏み入れたときの報復は凄まじく、これを追って南下することはしばしばある。
そんな彼らがエバ・ハーンと盟約を結び、草原の戦に荷担する決意をしたのには幾つか理由がある。
アラクチュの降嫁もさることながら、何より彼らを惹きつけたのは、セペート部から莫大な食糧の供給を条件として提示されたことである。一般に慢性の食糧不足に悩む彼らとしては、これに勝る報酬はなかった。
ともかくケルン・カーンはまだ凍る北の大地から一師を率いて南下し、アイルの展開を終えたセペートへと向かった。
疾駆する彼らの風体は、草原の民から見れば異様であった。革の鎧の上にさらに皮裘を纏い、頭は羽飾りの付いた布で覆われている。
もっとも目を惹くのは、何と言っても顔に施された一種の化粧である。目の下は黒く縁どられ、頬には赤の塗料で掻き傷のような筋が幾重にも引かれている。
これは彼らに何か祝いごとがあったときの正装である。慶祝の場から邪を祓うために顔を塗るのだ。初めてそれを目にしたセペート部の人衆は驚くとともに、このような蛮族に嫁ぐアラクチュに密かに同情した。