第四 三回 ①
ドブン・ベク奸人を説いて盟約を締結し
グルカシュ囚徒を屠りて将印を拝受す
さて、ナルモント部の新ハーン、ヒィ・チノに恐れを抱いた鎮氷河ことエバ・ハーンは、寵臣であるドブン・ベクの献策に頭を悩ませていた。
というのはその策が、北の異族に己の娘を嫁がせて、ヒィ・チノと対抗するというものであったからである。三日三晩、あれこれ考えた末に、ついにドブンを召して言った。
「やむをえん。娘を、異族にやろう」
その顔は見るも無残に憔悴しきっている。怜悧で情の薄いドブンもそれを見ては心を動かさずにはおれず、面を伏せて言った。
「英断でございます。これで敵人に辱められることはありません。早速使者を送られるがよろしいでしょう。私は神都へ出向いて、ヒスワを説得します」
これですべてが決まり、エバの娘アラクチュを異族の王であるケルン・カーンへ嫁がせることになった。使者にはやはり腹心のズベダイが選ばれ、車に宝物を満載して北へと向かった。
ドブン・ベクも宝珠を持参して神都へ赴いた。ナルモント部のものに咎められるのを恐れて、西へ大きく迂回してから河を渡る。
無事に神都へ辿り着いたが、まず城門で厳しく来意を問われる。隠し立てする必要もないので、セペート部の使者であることを伝えた。門衛の長がしばらく待つように告げて、宮城へと駈け去る。
ずいぶん待たされたあとにやっと入城を許されると、案内の兵士数名に連れられて宮城へ向かった。
神都は往時の面影もなく、ひっそりとしているように見受けられた。人の往来も減り、たまに道行くものは辺りを憚るように背を丸めて早足で過ぎていく。ドブンは、ふんと鼻を鳴らすと、ゆっくりと歩を進めた。
宮城はこの夏に大改修されたらしく、そこだけが頽勢に抗うかのようである。ヒスワの虚しい自尊心が露になったそれを、民衆はどう見ているのであろうか。
ぼんやりと考えごとをするうちに宮城の門に辿り着く。ついてきた兵士は門衛に彼を引き渡して去っていった。
宮内に入れば、そこかしこに華美な装飾が施されている。長い廊下を二度、三度と曲がると、正面に大きな扉が見えてきた。その扉も黄金宝玉の類を惜しげもなく鏤めた目も眩むような代物。
ドブンはそれを見て、やはり感心するよりも寒々しい気分になる。
「中でヒスワ様がお待ちです」
と、目の前の扉がゆっくりと開いた。室は相当な広さである。鮮やかな文様に彩られた張幕がするすると開くと、奥に一人の男が胸を反らせて座っていた。左右には飾り槍を持った兵士が並んで、威を添えている。
ドブンはそっと目を伏せて、深々と拝礼した。
「セペート部の使者とか。遠いところをよくぞ参られた。直答を許す。近く寄れ」
そのあまりの仰々しさにドブンは呆気にとられたが、扉の脇にいた老臣の導くままに進み出て平伏した。
「ハーンの代理で参りましたドブン・ベクと申します。神都の英雄ヒスワ様に拝謁の栄を賜り、ありがたき幸せに存じます」
「そう堅くなるな。近ごろは私も暇を持て余しているのだ」
その言葉に順って顔を上げたドブンは、思わずあっと声を挙げそうになった。ヒスワは眉目秀麗、かつ気力旺盛な二十代半ばの策略家だと聞いていたのに、目の前の男はどう見ても中年を過ぎていた。眼には光なく、身体は醜く肥満している。
「どうした? 余がヒスワだ。何か神都を利する知恵を携えてきたのか」
「はっ……」
ドブンは早くも己の失策を悔いたが、すでにことは動きだしている。この肥満漢を説いて、兵を出させなければならない。失望の色を押し隠しつつ言った。
「東原に猶予ならざる事態が起こっております。ナルモント部のハーンが代わりました。その名はヒィ・チノ・ハーン。東原では神箭将という奴の渾名を知らぬものはおりません。ナルモント部と我がセペート部は、代々仇敵の間柄ですが、ヒィ・チノの登極で我々は一挙に不利な形勢に立たされました。そこで是非とも神都の力をお借りしたいのです」
そこでちらりと反応を窺ったが、相変わらず眼の色は濁ったまま。面倒そうに口を開くと、
「東原のことは東原で処置すればよかろう。神都に何の関わりがある」
ドブンはその知恵の運りの悪さに内心舌打ちしたが、自らを励まして言うには、
「東原の大族といえば、ナルモント部とセペート部の二者しかありません。ヒィ・チノは雄心旺盛な英傑。我らが屈すれば、次に欲するのはこの神都の富です。神都を得れば両河の東方をほぼ押さえて、遥か天下を望むことができるのですから。つまりセペート部と神都は利害を等しくするもの。両者は謂わば唇と歯の関係、『唇亡べば歯寒し』と俚諺にもあります。ここは盟を結んで神箭将に対抗するべきです。そうすればナルモントを挟撃する形勢が成り、必ずや利益をもたらすでしょう」
ここで初めてヒスワの眼が鈍く光った。ドブンは目敏くそれに気づいたので、さらに熱弁を振るって、
「我らがヒィ・チノの軍勢を河北に誘い出します。貴殿はその隙に奴の留守を突いてください。そうすればヒィ・チノは巣を失った狐も同然、天下に帰るところを失います。これこそ上天が与えた好機、神都は西で失った覇権を東で復し、再び天下を望む力を得るでしょう」
口を閉ざして返答を待つ。
ヒスワの頭が漸く回りはじめる。先の敗戦以来、錆びついていた脳に知恵者と呼ばれた知恵が甦ろうとしていた。