第四 二回 ③
神箭将バヤリクトゥを急襲し患を除き
飛虎将クリルタイにて揚名し位に即く
さて翌日、モゲトは使者となって、サトランにツジャン・セチェンを訪ねた。
「待っていたぞ。ヒィはどうした? 首尾よくいったか?」
身を乗り出して尋ねれば、にやりと笑って、
「昨日、バヤリクトゥを誅殺し、今はアケンカムのアイルにいる」
「そうか、それは何より。すぐにもクリルタイは開催されるだろう。その地はすでに決まっている。あとは期日を諸氏に通達するだけだ」
ツジャンは大喜びで、早速各地に早馬を送り出す。独りキセイを残して、告げて言うには、
「君には特にオルサ氏のタガチャイに会ってもらおう。奴は一度はハーンに食指を動かした男。真意を確かめてこい」
「承知。タガチャイはバヤリクトゥの専横を非難して人気を集めた男だろう。ヒィ・チノが自ら奴を誅殺した今、大望は棄てざるをえまい」
「一度見た夢をそう易々と忘れられるものか。ハーンへの未練を僅かでも残していれば、容赦なく滅ぼさねばならん」
キセイは頷いて出発した。それを見送ると、またモゲトに向かって、
「それはそうとヒィはいつ戻るのだ」
「クリルタイに直に乗り込むとのことだ」
ツジャンは眉を吊り上げて、
「何だと? そんな腰の軽さでハーンになってよいのか」
「さあ、何か考えがあるのか、単なる気まぐれか……」
ふうと溜息を吐くと、
「まあよい。クリルタイは三日後、ハラ・ニウムで開催される。バヤリクトゥ亡き今、ことは早いほうがよい。多少異例だが、準備はすべて整っている。そう伝えてもらおう」
「承知。では三日後、ハラ・ニウムで」
モゲトは別れを告げると、アケンカムに戻って復命した。瞬く間に期日となり、ヒィは私兵に加えてアケンカム軍五千騎を従えて約会の地へと向かった。
すでにムヤン氏、サトラン氏、タラント氏、さらにオラザ氏の長老、重臣は集合しており、三氏の軍勢併せて一万五千騎がうち揃って変事に備えていた。クリルタイの諸事進行については、ツジャン・セチェンが責務を負っている。
ヒィ・チノはハラ・ニウムの手前十数里で軍を止め、かの地に諸氏が揃うのを待った。キセイが次々と諸氏の到着を伝える。もっとも遅れて来たのはオルサ氏である。率いる兵は二千。
「ほほう、来たか。で、タガチャイの様子は?」
「恭倹にして謙屈な様子で、クリルタイ開催を待っている。ハーンになるのは諦めたらしいよ」
ヒィはキセイを先に返し、自身はモゲト一人を随えてハラ・ニウムへと向かった。ツジャンが彼の到着を待っていた。
「おお、ご苦労」
声をかけると、
「君が最後の列席者だ。ほかは全員が揃っている。刻限どおり始められそうだ」
「そうか」
ツジャンは進行を司るため祭壇のほうへ行き、ヒィは定められた席に腰を下ろした。背後にモゲトが立って、四方に目を光らせる。
どんどんと太鼓が打ち鳴らされ、晴れ渡った天空に心地よく広がっていく。これは音で邪を祓うのである。
次いで髪を振り乱した巫者が祭壇に向かって拝礼し、テンゲリに長々と祝詞を捧げる。クリルタイが公正であり、ここでの決定がテンゲリの理にかない、絶対であることを宣誓するのである。
それが終わると、巫者の手で輪になって座した列席者に酒が入った大杯が回される。それをひと口ずつ飲んでそれぞれテンゲリに誓う。居並ぶのは諸氏の長老、重臣の類。若い将領たちには別の席が設けられていて選挙には参加できない。
輪の中心には空席があり、ハーン候補として挙げられたものはそこに座る。そこからハーンに相応しいかどうか、列席者に試されることになるのがナルモント部における慣習である。
いよいよ最長老が祭壇に進んで、ハーン候補の名を告げる。
真っ先に名が挙がったのはもちろんヒィ・チノ。颯爽と立ち上がると躊躇なく輪の中へ進み、祭壇に向かって悠然と拱手してから、おもむろに空席のひとつに腰を下ろす。
その所作の見事さに誰もが感心する。緊張している様子もなく、それでいて指先まで気力が漲っている。まさに泰然として英主の風格を漂わせている。
次いで、オルサ氏のタガチャイ。はっと驚いて立ち上がったが、視線は定まらず、肩を落とし、細かく震え、足許もおぼつかない。顔は真っ青で、小趨りに祭壇に向かったかと思うと、あたふたと拱手して何やらぶつぶつと呟く。
席に向かうときも、目を伏せてヒィが視界に入らぬよう汲々としている。座ってからももぞもぞと落ち着かず、ときどき目を上げてはきょろきょろと辺りを窺う。みなあまりの情けなさにおおいに呆れる。
ツジャンはこっそりと傍らのキセイに囁いて、
「あのざまを見ろ。格好の引き立て役だ」
キセイは笑いを堪えるのに必死である。彼の笑い声は、近くは百里、遠くはテンゲリにも届くもの。腹を押さえて堪えているのを見て、ツジャンは言う相手を間違えたなどと思う。
さて呼ばれたのはヒィとタガチャイの二名だけであった。
列席者は、二人に部族の課題について矢継ぎ早に問いを繰り出す。ヒィ・チノは何を聞かれてもすらすらと澱みなく答える。一方のタガチャイは、一語ごとに躓き、ついにはもごもごと口を動かすばかりとなった。
それもそのはず、ヒィ・チノはそもそも一度聞いたことは忘れぬ博覧強記、しかも一年に及ぶ長旅で実地の見聞を増しているのだから、タガチャイなどものの数ではない。
長老、重臣たちはおおいに感嘆して、ヒィ・チノを慕うことダコン・ハーン以上になった。翻ってタガチャイに向けられるのは侮蔑の眼、おかげでますます緊張して何ひとつまともに答えられない。一人の長老が隣に向かって囁く。
「ヒィ・チノといえば神箭将などというから、兵事のみの男かと思っておった。それがどうだ、礼にも法にも通暁せざるはない。部族始まって以来の英傑かもしれぬぞ」
そんな声が座に満ちたところで質疑は終わった。もはや結果は見えていた。
「さあ、テンゲリに誰の名を告げよう。ヒィ・チノか? タガチャイか?」
巫者の問いに応えて、最長老が厳かに言うには、
「我らの命を託すハーンとして相応しいのはどちらか……。ヒィ・チノか?」
すると瞬時に全員が立ち上がって賛意を表した。観衆からは大歓声。その声はエトゥゲンを揺るがし、テンゲリをどよもした。ヒィは歓声の轟く中を祭壇まで進むと、跪いて拝命の礼を施した。
立ち上がってゆっくりと振り向けば、巫者、長老、重臣、諸将など、居合わせたすべてのものが端から平伏していき、これを迎えた。
ヒィ・チノ・ハーン(飛狼合罕)誕生の瞬間である。




