第四 二回 ② <ショルコウ登場>
神箭将バヤリクトゥを急襲し患を除き
飛虎将クリルタイにて揚名し位に即く
号令を合図に、五百騎の元野盗は怒号を挙げて駆けだした。翳した得物を頭上でぐるぐると旋回し、咆哮とともに丘を下るさまは、見るものに恐怖を抱かしめるに十分だった。
瞬く間にアイルに突入したかと思うと、脇目も振らずに中央のゲルを目指す。あわてて飛び出してきたセトゥ氏の男どもも呆気にとられるばかりで為す術もない。
バヤリクトゥは、例のごとく諸将を前にハーンになったあとのことについて得々と語っていたが、外の騒がしさを訝って立ち上がった。
「何の騒ぎだ。ジェジュ、見てまいれ」
末席にいた将軍が命を受けて出ていったが、まもなく血相を変えて飛び込んでくると、
「族長様! し、し、信じられないことが……。狼が、……狼が帰ってきました!」
「どうした、何を言っている。落ち着いて話せ」
しかし落ち着けるはずもなく、あたふたと答えて、
「神箭将です! ヒィ・チノが、手勢を率いて攻め込んできました!」
「何だと!?」
バヤリクトゥの顔からはすっと血の気が引く。ゲルのうちは大混乱に陥った。転がるように表に出ると、眼前に怒涛のごとく襲い来る一隊が迫っていた。先頭に立つ若い将を見たバヤリクトゥは、がたがたと震えながら呟いた。
「ヒ、ヒ、ヒィ・チノだ……。生きていたのか……」
ヒィもバヤリクトゥの姿を認めて、
「逆臣め! ハーンの恩を忘れたか!」
その声は、バヤリクトゥの心臓にぐさりと突き刺さり、一歩も動けなくなってしまった。配下の諸将もそれは同じで、ヒィの迫力に圧倒されてただ立ち尽くす。青ざめた顔に脂汗を浮かべながら震えるばかり。
「ははは! お前のような阿呆にナルモント部を委ねられようか! 死んで己の不明を呪うがよい!」
そう言って矢をつがえ、ひょうと放てば、違うことなくバヤリクトゥの喉を刺し貫く。ハーンを夢想した男は悲鳴を挙げる間もなく、どうっと倒れる。ヒィの軍勢からは、わっと歓声が挙がる。
セトゥ氏の諸将はあわてて膝を屈し、みなその場に平伏した。ヒィは全軍を止めて、一騎進み出ると言った。
「お前らは愚かな主君に引き摺られただけだろうが、一人として諫めることもなく奴が暴走するままにしていたことは重罪だ。みな将軍の地位を剥奪して庶民とする。不服があるものは前に出ろ!」
これには恐懼して、ただ畏まるばかり。
「ふん、気概のない連中だ。セトゥ氏は今後これを廃し、人衆、家畜は諸氏に分配する。おとなしく下命を待て」
それだけのことを言うと、もう彼らのことは眼中になく、さっさと馬首を廻らせる。モゲトがあわてて彼らに縄をかけるよう命じる。
ヒィはアイルを巡り、長老たちを集めてこれを慰撫した。みな恐れ入って逆らうものもない。ヒィはそこで尋ねて言うには、
「アケンカムのベルン・バアトルはどこだ?」
すると一人が恐る恐る告げて言うには、
「昨日のことでございます。ベルン様はバヤリクトゥ様を諫めるために自刃して果てました。娘のショルコウが遺骸を引き取り、アケンカムに帰りました」
ヒィはおおいに嘆じて上天を仰いだ。そしてゾンゲルに言った。
「ベルンは我が部族の誇る名将だったのに、あたら愚かな盟友を持ったばかりに命を縮めてしまった。戦機を看るには敏であったが、人を観る目はなかったか」
兵をまとめてセトゥをあとにすると、その足でアケンカムへと向かった。北へ離れること数十里である。
その日の夕刻には無事に辿り着く。モゲトを先行させて到着を知らせたところ、諸将および長老たちは、死んだと伝えられていたムヤンの公子の来訪におおいに驚き、一同揃ってこれを出迎えた。
ヒィは大ゲルに案内されて接待を受けた。そこで言うには、
「ベルン・バアトルのことは聞いた。今朝、逆臣バヤリクトゥはこの手で誅殺したが、かの名将を救うことができずに申し訳ない」
アケンカムの一同は悲嘆にくれながらも、交々謝意を表した。そして言うには、
「ベルン様は亡くなられましたが、我ら一同ヒィ様のご帰還を心より喜んでおります。一日も早くハーンとなってナルモントの名を天下に知らしめてください。アケンカム八千騎はどこまでも従いますぞ」
ヒィはおおいに気を好くして、これを重んじることを約した。ふと顔を上げて、
「そういえばベルンの娘はどうした? 姿が見えぬようだが」
「はい、ショルコウ様はベルン様を弔ったあと、ゲルに籠もっておられます。ヒィ様のご到着も伝えたのですが、『そんなめでたい席に連なることはできぬ』との仰せで……」
「ではこちらから出向こう。案内せよ」
長老たちはあわててこれを押し止めたが、かまわず立ち上がるとさっさと表に出る。やむなく一人の長老が先導に立った。ほどなく目指すゲルに着いたので、ヒィは言った。
「ショルコウ、入ってもよいか」
中から即座に答えがあって、何と言ったかといえば、
「誰にも会いたくない。ヒィ様にはいずれ自ら詫びに参ろう」
その声は決然として明瞭、いささかの逡巡も見られない。ヒィはにやりと笑うと、そのままずかずかと入っていった。
壁に向かって座していた娘は、驚いて振り返ると、
「誰にも会わぬと言ったであろう、無礼な!」
しかしそこに立っていたのがヒィ・チノであるのを見て、あっと声を挙げるとたちまち平伏した。
「公子自らのお出ましとは知らず、失礼いたしました」
「よい。こちらも非礼であった。ご父君の悲報を聞いて、ひと言弔いを言いに来たのだ」
「もったいないお言葉です」
ショルコウは伏せたままで答える。
「顔を上げよ」
応じて静かに面を上げて、ヒィを正視する。その人となりはといえば、
年のころはいまだ二十歳を超えず、髪は黒く、面は白く、大きな眼は炯然と輝き、薄い唇は毅然と結ばれ、顎は細く、首は長く、娟娟たる柳腰の佳人にして知勇を兼備し、胆に炎ある一個の女丈夫。
ヒィは感心して、
「さすがはベルンの令嬢、臆する色もない。アケンカムは貴女のあるかぎり侮られることはあるまい」
そう言うと、弔意を述べて速やかに辞そうとした。ショルコウは再び非礼を詫び、弔問について謝すと、
「落ち着いたらムヤンを訪ねます」
とだけ告げた。ヒィはゲルに戻ると、諸将に必ずショルコウを重んじるよう諭したが、くどくどしい話は抜きにする。