第四 二回 ① <モゲト、ワドチャ登場>
神箭将バヤリクトゥを急襲し患を除き
飛虎将クリルタイにて揚名し位に即く
キセイが去って五日、ヒィ・チノの待っていた男がやってきた。
「おお、モゲト。久しぶりだな、息災だったか」
「ヒィ! 生きていたか。アイルは大騒ぎだぞ」
そう言いつつ歩み寄るのを見れば、
年のころはヒィと同じほど、身の丈は七尺と小柄なるも、隆々と筋骨逞しく、角面に小さな目、頬は盛り上がり、笑う口からは皓歯が覗く、見るからに心優しき好漢、これぞタラント氏の勇将モゲト。
「なぜすぐに戻らず、死んだなどと言わせたのだ。部族の男は肩を落とし、女は涙にくれているぞ。俺も最初は陽を失ったような気分だったわ。キセイから密かに真実を伝えられたときには、喜ぶよりまず腹が立ったくらいだ」
言い募る様子に苦笑しながら、
「すまん、すまん。ツジャンは何と言っていた?」
「ヒィにはヒィの考えがあるのだろう、と。でもおかげで次期ハーンを狙うものは俄然活気づき、すでに部族は割れはじめている」
ヒィ・チノの双眸がきらりと光った。
「ほほう、セトゥ氏のバヤリクトゥあたりはどうだ?」
「あの愚公に至っては狂喜して自派の諸将を集め、すでに天下を取ったような振る舞い。心あるものはみな眉を顰めている」
これを聞いて満足げに頷くと、腕を組んでその辺りをぐるぐると歩き回りはじめる。モゲトは困惑を隠せない様子で尋ねた。
「ヒィよ、君の私兵とやらを連れてきたが、これからどうするのだ」
はっと驚いたように立ち止まると、
「おう、そうだ。まあ、とりあえずはゆるりと休め。ときが来たら動いてもらう」
それだけ言い残して、すたすたとゲルへ戻る。モゲトは首を傾げながらもあえて何も聞かなかった。それからしばらくヒィは動かず、密偵を放っては情報を集めることに専念した。
目下、次期ハーンの有力候補であるバヤリクトゥは、横暴の挙措が目立ち、各氏族の長老や族長らに、早急にクリルタイを開くよう強くはたらきかけていた。
早くも一族の主だった諸将に与える恩賞を討議し、そればかりかムヤン氏の牧地を接収する計画があることすら漏らしているらしい。
まだダコン・ハーンが存命にもかかわらず、あまりに傍若無人なその有様に世論は四分五裂、クリルタイの開催に反対するものも多いという。
またオルサ氏の族長タガチャイもハーンに名乗りを挙げた。バヤリクトゥの専横を非難することで一部の人気を獲得しつつあるらしい。それを聞いてヒィは軽侮の笑みを浮かべると、
「ふふ、所詮は権勢に群がる狗に過ぎん。バヤリクトゥがなければ己が同じ轍を踏んだだろう」
しかしまだヒィは動かない。
そこに一騎、訪ねてきた男があった。怪しみながら会ってみれば、
「お初にお目にかかります。オラザ氏族長ハイチョウの嫡子でワドチャと申します。キセイからギィの書状を受け取り、お力添えいたそうとて参った次第です」
その人となりはといえば、
身の丈は七尺少々、額は濶く、項は平たく、眸は優しく、鼻は大きく、気は軒昂にして凌雲の志あり、富裕の家に生を享けるも、財を軽んじ義を重んじる真の好漢。
拱手して言うには、
「以前からヒィ様のご高名は雷鳴のごとく耳に轟いておりましたが、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。本来ならギィからの書を見てすぐにでも駆けつけるべきでしたが、何も持たずに参上するわけにもいかないので、今日まで献上する品を調えておりました」
「献上する品だと?」
するとワドチャは深々と拝礼して言った。
「そうです。我がオラザ氏の兵馬、家畜、財宝、すべてヒィ様に献上いたしますので、どうぞ自由にお使いくださいませ」
さすがのヒィもあっと驚いて、
「何と!! 戯言を言うな」
「とんでもない。偽りなき本心でございます。我がオラザ氏は全面的にヒィ様を支持、支援することに決しました。これが私が遅れた理由であり、また我が誠意でございます」
ヒィはこれをおおいに嘉賞し、ますます重んじることを約して、とりあえずアイルに帰らせた。
それからキセイが何度か往来して直接情勢を伝えた。ある日、彼がもたらした報に、ヒィは初めて反応した。
アケンカム氏の名将ベルン・バアトルは、バヤリクトゥの盟友であったが、彼の専横を強く諫めて怒りを買い、ついに獄に落とされたという。アケンカムの人衆はおおいに嘆き、不満を募らせているとのこと。
「ふふふ、ついに起つときが来たぞ。鎧を纏え、馬を牽け! この神箭将が、バヤリクトゥを懲らしめてくれよう!」
一同はわっと歓声を挙げると、嬉々として戦の準備にかかった。またキセイに命じて、
「ツジャンに伝えよ。捷報があり次第、長老どもに勧めてクリルタイを開け。俺はそのとき初めて姿を現すだろう、と」
「承知」
キセイは矢のように飛んで帰った。
ヒィ・チノはただちに全軍五百騎を率いて仮のアイルを引き払った。自ら先頭に立ち、疾風のごとく駆けだす。左右には病大牛ゾンゲルとタラント氏のモゲトが従う。三日後、ヒィたちは小高い丘の上からセトゥ氏のアイルを見下ろしていた。
「見よ、あの中央のゲルで身のほども弁えぬ愚者が夢を見ている。よいか、全軍一矢となりてその夢を砕け!」
みな一様に頷く。それを確認すると、すっと右手を挙げる。ひと呼吸置いてその手は勢いよく振り下ろされた。
「突撃!」