第三 九回 ④
アンチャイ独り神風を迎え衆庶を完うし
チルゲイ俄かに初志に還り行旅を云う
そんなある日のことである。朝からチルゲイが大騒ぎしはじめた。
「北へ、北へ行かなければ! ほら、ミヤーン、準備しろ! ナユテ、占え、占え! 発つのは今日か、明日か! ヒィはどこへ行った?」
ミヤーンが面食らって言った。
「いったい急にどうしたのだ。何かあったのか」
するとその肩を把むや、激しくこれを揺すって、
「どうしただと? 我らは旅の途中ではないか。すっかり忘れておったわ」
「忘れていただぁ? ではなぜここに居るのだ」
問われてこれをどんと突き放すと、なぜか神妙な面持ちで、
「それよ。昨晩それをつらつら考えていたところ、ふと思い出したというわけだ。さあ、出発するぞ」
ミヤーンは呆れてものも言えない。ナユテが笑って、
「まあまあ、今はムジカらがハーンのもとへ行っている。三日もすれば戻ってこよう。それから出発しようではないか」
チルゲイは、はっとして、
「そうかそうか。それならやむをえぬ。戻ってきてからにしよう」
ムジカとアステルノが帰還すると、早速チルゲイは旅立つ旨を伝えた。急な話に驚きあわてて送別の宴を張る。大小の将領はみな大ゲルに集まった。好漢たちはおおいに飲み、食い、歌い、舞い、語り合った。
アンチャイもこの席にはやっと連なった。宴の最中、チルゲイはそっと席を立つと、アンチャイに囁いて言うには、
「これから北へ向かう。ギィ殿に遇うかもしれぬ。何か言伝があれば承ろう」
はっとして礼を言うと、
「私は好漢の方々の恩顧を賜り、無事に暮らしておりますと伝えてください」
「わかった。他には?」
ふと躊躇う素振りを見せたが、やがて言うには、
「人衆はみな獅子の名が再び世に顕れることを信じています、と」
チルゲイはぐっと胸が詰まる。幾度も頷いて、
「確かに伝えよう。ではアンチャイも息災で。私が言うのも何だが、ここの連中はみな知ってのとおりの好漢、安心しておいでなさい。兵事は天運、ひとつ違えば勝敗は替わっていただろう」
「よく解っております。道中お気をつけて」
そう言って莞爾と微笑む。チルゲイはからからと笑うと、拝礼して席に戻った。宴はいつ果てるともなく続いたが、この話はここまでにする。
翌日、四人はジョナン氏のアイルをあとにした。馬、食糧、水、銀錠、矢など、必要なものはすべて十分に贈られた。
アイルが遠くに過ぎると、さっと鞭を振るって駆けだした。天空は高く、大地は広く、心地好い風が吹きわたる。空を鷹が翔けていき、そこかしこから栗鼠が顔を覗かせる。まことに快活な気分で馬を駆った。
「まずはどこへ!」
先頭を行くヒィが叫ぶ。チルゲイが笑って負けじと叫び返す。
「決まっておろう! 好漢に会いに行くぞ。獅子に挨拶だ!」
驚いたヒィが思わず手綱を引く。
「何を驚いている。旅の目的は好漢に会うこと。違うか?」
ヒィの顔にみるみる笑みが広がる。
「ははは、気に入った! よし、獅子を捜そう!」
ミヤーンは、もう好きにしろといった体であとに続く。ナユテは笑いを噛み殺している。チルゲイが顧みて言った。
「ギィはカラバルの西南に向かった。近くまで行ったら神道子の出番だぞ。会えるかどうかはテンゲリのお導き次第。さあ、行こう!」
そして幾日も旅を続けて、例のカラバルに十里というところまでやってきた。
「ここから東へ行けば、もとのマシゲル。獅子は西のほうへ去っている。とりあえず様子を見ながら進むことにしよう」
チルゲイの言葉に順い、四人は馬を歩ませた。しばらく行くと次第に起伏が激しくなり、やがて地肌が露出しはじめ、ついには岩ばかりの土地に辿り着いた。道は徐々に細くなっていく。
「ここは怪しいのではないか!」
チルゲイは嬉しそうに叫んだ。その声が消えるか消えないかというとき、前方にばらばらと人影が現れたかと思うと、四人はすっかり取り囲まれてしまった。およそ三十人ほどの射手が狙いを定めている。
「ちっ!」
ヒィ・チノが得物に手を伸ばしかけたが、ナユテがそっと目で制する。すると一団の中から首領らしき男が進み出て言った。
「お前らはどこのものだ。どこへ行こうとしている」
チルゲイは臆する様子もなく答えて、
「旅のものです。遠くマシゲルのギィ様を慕って訪ねてまいったところ、戦で利あらず、難を避けているというので、捜しているのです」
それを聞くと男はあっと驚いて、一団に弓を下げさせた。何ごとかと訝っていると、男はあわてて駆けてきて揖拝する。わけもわからず礼を返せば言うには、
「ギィ様の行方をご存知でしたら是非教えていただきたい。ここでは何ですから、我が塞へお越しください」
手下を叱咤して下がらせると、自ら先頭に立って四人を案内する。四人は互いに顔を見合わせながらあとに続く。
ここでこの男に遇ったことによって、神道子の神技は冴えわたり、ついには宿星の運り運って険阻の地に好漢相集うということになるのだが、果たして男はいかなる素性のものであったか。それは次回で。