第三 九回 ③ <ハリン登場>
アンチャイ独り神風を迎え衆庶を完うし
チルゲイ俄かに初志に還り行旅を云う
注目を浴びた奇人は呵々大笑すると、
「易い、易い。知恵というほどのものでもない。なあ、神道子、君ならどうする」
即座に答えて、
「君と同じことをするさ」
「そうだろう。ではちょっと中座させていただく。戻ってきたときにはすべて解決しているはずだから、待っていてもらいたい」
チルゲイはヒィを伴ってゲルを出た。みな意図が判らずぽかんとしている。独りナユテだけがにやにやしながら杯を傾けた。
半刻ほど経っただろうか、不意に二人が戻ってきた。
「おお、待ちかねたぞ。いったいどうなった?」
ムジカが問えば、すました顔で言うには、
「偶々、賢くも美しい娘を手に入れましたので、族長様に献上します」
驚いて彼の背後を見れば、何とそこにアンチャイが立っている。当人にも事情が呑み込めていない様子。オンヌクドが言った。
「これはいったい……」
チルゲイが語るところによれば、
「神箭将と夜風に当たろうとぶらぶらしていたところ、なぜかかくも美しい娘がいたので、族長様に献じようとて連れてきたのです。どうぞお納めください」
傍らからヒィが口添えして言うには、
「それはそうと、たしかに擒えたはずの獅子の妻は、いつの間にか逃げ出してしまったようで、捕虜の中には見当たらなかったぞ。衛兵を叱っておいたから今後このようなことはあるまいが」
一同はやっと二人の意図が解って大笑い。ムジカも笑みを浮かべて、
「なるほど、獅子の妻は逃げたか。それでそこの娘は君らが見つけてきたと云うのだな」
「いかにも。この娘を丁重に扱うもハーンに献ずるも族長様の心ひとつです」
チルゲイがそう言って深々と拝礼したので、また座は笑いに包まれる。ムジカは二人に礼を述べて座らせると、アンチャイにも席に着くよう勧めたが、何と答えたかといえば、
「お志はありがたく思いますが、戦に敗れて人衆が難儀しているときに、私だけが施しを受けることはできません。将軍もそのようなことを軽々しく口にしてはいけません。それはマシゲルという部族に対して礼を失しております」
ムジカらはおおいに愧じ入り、みな席を立って謝罪した。その後、アンチャイは本人の願いもあって人衆のもとへ返すことにした。マシゲルの民は、アンチャイが連れていかれたので心配していたが、無事に戻ってきたのでおおいに安堵した。
それでもこのあとアンチャイは、タゴサに仕えるという名目で幾人かの従者とともにジョナン氏のアイルに残ることになった。
その他の捕虜、家畜はことごとくハーンの下に送られて、後日改めて一部が恩賞としてジョナン、セント両氏に下賜された。その中に一個の女丈夫があって、アイルに送られてくるなり言うには、
「アンチャイ様に会わせてください。私はそのために八方手を尽くしてここに戻ってきたのです」
その人となりを見れば、
身の丈は七尺足らず、鹿のごとき目、玉のごとき歯の美貌、肌は銅のごとく赤く、胴は牛のごとくして胸も腹も尻も大ならざるはなく、またその心も器に応じて広量、瑣事に拘泥せず、人の心を安んじるべき女丈夫。
偶々居合わせたオンヌクドが、これは並の女ではないと看て取ってアンチャイに引き合わせれば、おおいに喜んで言うには、
「ああ、ハリン! 無事でしたか!」
「アンチャイ様も息災そうで何より。安心しました」
オンヌクドがアンチャイに尋ねた。
「この人はどういう方ですか」
答えて言うには、
「こちらはキライ氏のハリン。マシゲルに嫁いだ当初から側に仕えてくれていました。顔が赤く身体が大きいので『赫大虫(赤い虎の意)』と呼ばれています。恐ろしげな渾名を付けられていますが、心優しく賢い女性です」
するとハリンは笑って、
「そんなに褒められても困ります。とにかく会えて良かった」
オンヌクドはタゴサに諮って、ハリンもまた側に置いてアンチャイと一緒にいられるようにした。二人がおおいに喜んだのは言うまでもない。
それはさておき、この戦でマシゲル部の勢威は大きく後退し、獅子は雌伏の秋を過ごすことになった。代わってヤクマン部の版図が拡大し、小部族の多くはトオレベ・ウルチ・ハーンに臣従した。
一方、ムジカとアステルノは上将としての地位を確かなものとし、ときおり開かれる大会議に出向かねばならなくなった。
そもそもこの勝利は四人の客人がもたらしたものであった。すなわち第一に神箭将ヒィ・チノは初戦で敗勢を覆す猛勇を発揮し、第二にチルゲイとミヤーンの知略でバラウンを術中に陥れ、最後に神道子ナユテが霧の天候を正確に読んで策を全うさせたのである。
その四人はといえば本来は旅の途上、冬をジョナン氏のアイルで越すだけのつもりだったが、いつの間にか季節は夏も半ばになっていた。
彼らは暇を持て余していたので、狩りをしたり、子どもと遊んだり、忙しくはたらくオンヌクドらを冷やかしたり、アンチャイとハリンを訪ねて話をしたり、つまるところ何もせずにぶらぶらして過ごしていた。
今ではアンチャイも彼らが好漢であることを知って、また傍に人と接するのが上手なハリンがいるのも手伝って、徐々に心を開くようになっていた。しかしギィの無事を朝夕上天に祈っていたのは言うまでもない。