第三 九回 ②
アンチャイ独り神風を迎え衆庶を完うし
チルゲイ俄かに初志に還り行旅を云う
さてゴロの予測どおり、マシゲルのアイルにはすでに神風将軍アステルノ率いるセント軍が赴いていた。ほとんど抵抗らしい抵抗はなかったが、それというのもアンチャイが無意味な抵抗を戒めたからにほかならない。
アステルノが兵を引き連れてアイルに入ると、アンチャイは自ら従者数人とともに出頭した。美しい少女の姿を見て、心ない兵衆は囃し立てようとしたが、果たしてその堂々とした態度に打たれ、みな口を噤んだ。
さすがの神風将軍すら言葉を忘れたかのごとくこれを眺めていたが、はっと気づいて、
「あれが獅子の嫁か……」
アンチャイはまっすぐにその馬前に進むと、跪いて拱手して言うには、
「マルナテク・ギィの妻、アンチャイと申します。今、将軍を迎えてこれに勝る光栄はございません。将軍がこちらに見えたということは、獅子の身に何か良からぬことが起きたということ。ここには老兵と女、子どもしかなく、抗う意志も力もありません。どうか慈悲を賜り、無用の血を流さぬよう、ご配慮くださるようお願い申し上げます」
その言葉は明瞭で澱みなく、有無を言わせぬ迫力すらあった。アステルノはやがて言った。
「賢明なる獅子の妻よ。言葉のとおりにしよう。血を見るのは本意ではない」
アンチャイはそっと微笑を浮かべると、ゆっくりと頭を下げて、
「ありがとうございます。では家畜と人衆をお預けします」
そう言って立ち上がる。マシゲルの人衆はみなゲルの外に出て不安げな目を向けていたが、アンチャイは振り返って莞爾と笑うと、小さな身体から驚くばかりの声を挙げて彼らに呼びかけた。
「安心なさい! ヤクマンの将軍は慈悲深き方でした。我々は牧地は失いますが、一人として血を見ることはありません。これから見知らぬ地へ参らねばならぬでしょうが、獅子が存命であれば、いつの日かきっとマシゲルの人衆に戻ることがかないましょう!」
人衆は悲嘆にくれつつ、漸くのろのろと動きはじめた。ゲルが解体され、家畜はひとつところに集められる。それがすむと人衆は捕虜となり、次々に車に乗せられ、馬を与えられたものはなかった。
アンチャイも自ら従者とともに馬車に乗り込み、指示に従う範を見せた。この間、決して涙を見せることはなく、不安がる従者や人衆を励まし続けた。
準備が整うとすぐに出発する。途中、ムジカのジョナン軍と合流してヤクマンの版図へと向かった。道中は特に変わったこともなく無事に帰り着く。
翌日、オンヌクドとアルチンが戻ってきて言うには、
「ギィらは険阻な地に深く入っていったので、最後まで追うことはできませんでした。どこまで行ったものやら判然としません」
ムジカは頷いて二人を労った。それから諸将が一堂に集められ、論功行賞があった。第一の功はもちろんチルゲイのはずだったが、
「私は三寸の舌を弄んでいただけです。譬えれば馬を牽いてきただけのこと、第一の功は実際に馬に騎って獲物を仕留めた将にこそ与えるべきでしょう」
そう言って決して受け取ろうとしなかったので、結局アステルノが功績一等の栄誉を受けた。論功行賞のあとはお決まりの宴となった。ムジカが主人の席に着き、以下席次を定めて座ると、次々に酒食が運ばれる。
一同、チルゲイら客人の智勇を称え、またヒィ・チノとギィの一騎討ちに話題が及べばおおいに盛り上がった。ムジカが言った。
「まったく今回の戦は、客人がいなければ決して勝てなかっただろう。それほどに獅子は強く、英明だった。いくら感謝しても足りるということはない」
これを受けてヒィは、
「我らが何かしたとしても末節のはたらき。やはりムジカやアステルノの兵が強かったから勝ったのだ」
そう言って杯を干す。チルゲイらも深く頷く。ふと思い出したようにアステルノが言うには、
「俺にとって印象深いのは戦のことではなく、獅子の妻アンチャイだな。いろんな女を見てきたが、あれほど賢明な女は見たことがない。さすがは獅子の妻だ」
同じ女性である打虎娘タゴサがたちまち応じて、
「いったい何があったのさ」
尋ねたので事の次第を語れば、一人として感心しないものはなく、みなほうっと嘆声を漏らした。オンヌクドが言った。
「これから捕虜はハーンの下に送らねばならぬが、アンチャイ殿をハーンに献じればきっとあの方のことだ、放ってはおくまい。そのような賢夫人をして妾の辱めを与えてよいものだろうか」
するとマクベンが憤然として立ち上がり、
「よいものか! 我らの手でアンチャイ殿を護ろうではないか!」
諸将は喝采を送ったが、独りムジカは黙然として目を伏せた。訝しく思ってアルチンが問えば、答えて言うには、
「これは私戦ではない。ハーンの命令で戦ったのだ。得た捕虜、家畜はすべてハーンに献ずるのが法。アンチャイ殿を留めれば法に違うことになる」
マクベンが目を見開いて叫んだ。
「法だと!? アンチャイ殿を辱めるようなことがあれば、天下の好漢の笑いものだ!」
ムジカは呻き声を漏らして渋面を作ると、
「そう興奮するな。私とて救いたいのはもちろんだ。何か手がないか考えている」
傍らからタゴサが声を挙げて、
「しょうがないね。法とか何とか難しいことを言わずに、したいようにすればいいのに。こうなったら幾度も悪いけど、知恵者に知恵を借りたらいいじゃないか」
そしてチルゲイのほうを見る。ムジカはまさに蒙を啓かれた気分。