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草原演義  作者: 秋田大介
巻三
154/783

第三 九回 ②

アンチャイ独り神風を迎え衆庶を(まっと)うし

チルゲイ俄かに初志に還り行旅を云う

 さてゴロの予測(ヂョン)どおり、マシゲルのアイルにはすでに神風将軍(クルドゥン・アヤ)アステルノ率いるセント軍が赴いていた。ほとんど抵抗らしい抵抗はなかったが、それというのもアンチャイが無意味な抵抗を戒めたからにほかならない。


 アステルノが兵を引き連れてアイルに入ると、アンチャイは自ら従者(コトチン)数人とともに出頭した。美しい少女(オキン)姿(カラア)を見て、心ない兵衆は(はや)し立てようとしたが、果たしてその堂々とした態度に打たれ、みな(アマン)(つぐ)んだ。


 さすがの神風将軍すら言葉(ウゲ)を忘れたかのごとくこれを眺めていたが、はっと気づいて、


「あれが獅子(アルスラン)(オキ)か……」


 アンチャイはまっすぐにその馬前に進むと、(ひざまず)いて拱手して言うには、


「マルナテク・ギィの(エメ)、アンチャイと申します。今、将軍を迎えてこれに勝る光栄はございません。将軍がこちらに見えたということは、獅子の身に何か良からぬことが起きたということ。ここには老兵(ウブグン)(ブスクイ)子ども(クウヘド)しかなく、(あらが)意志(オロ)(クチ)もありません。どうか慈悲を賜り、無用の(ツォサン)を流さぬよう、ご配慮くださるようお願い申し上げます」


 その言葉は明瞭で澱みなく、有無を言わせぬ迫力すらあった。アステルノはやがて言った。


賢明(ボクダ)なる獅子の妻よ。言葉のとおりにしよう。血を見るのは本意ではない」


 アンチャイはそっと微笑を浮かべると、ゆっくりと(テリウ)を下げて、


ありがとうございます(バヤルララ)。では家畜(アドオスン)人衆(ウルス)をお預けします」


 そう言って立ち上がる。マシゲルの人衆はみなゲルの外に出て不安げな(ニドゥ)を向けていたが、アンチャイは振り返って莞爾と笑うと、小さな身体(ビイ)から驚くばかりの(ダウン)を挙げて彼らに呼びかけた。


「安心なさい! ヤクマンの将軍は慈悲深き方でした。我々は牧地(ヌントゥグ)は失いますが、一人として血を見ることはありません。これから見知らぬ(ガヂャル)へ参らねばならぬでしょうが、獅子が存命であれば、いつの(ウドゥル)かきっとマシゲルの人衆に戻ることがかないましょう!」


 人衆は悲嘆(ゲヌエル)にくれつつ、(ようや)くのろのろと動きはじめた。ゲルが解体され、家畜はひとつところに集められる。それがすむと人衆は捕虜となり、次々に(テルゲン)に乗せられ、(アクタ)を与えられたものはなかった。


 アンチャイも自ら従者とともに馬車に乗り込み、指示に従う範を見せた。この間、決して涙を見せることはなく、不安がる従者や人衆を励まし続けた。


 準備が整うとすぐに出発する。途中、ムジカのジョナン軍と合流(ベルチル)してヤクマンの版図(ネウリド)へと向かった。道中は特に変わったこともなく無事に帰り着く。


 翌日、オンヌクドとアルチンが戻ってきて言うには、


「ギィらは険阻(ケルテゲイ)な地に深く入っていったので、最後まで追うことはできませんでした。どこまで行ったものやら判然としません」


 ムジカは頷いて二人を(ねぎら)った。それから諸将が一堂に集められ、論功行賞があった。第一の功はもちろんチルゲイのはずだったが、


「私は三寸の(ヘル)(もてあそ)んでいただけです。(たと)えれば馬を()いてきただけのこと、第一の功は実際に馬に()って獲物(ゴロスエン・ゴルウリ)を仕留めた将にこそ与えるべきでしょう」


 そう言って決して受け取ろうとしなかったので、結局アステルノが功績一等の栄誉を受けた。論功行賞のあとはお決まりの宴となった。ムジカが主人(エヂェン)の席に着き、以下席次を定めて座ると、次々に酒食が運ばれる。


 一同、チルゲイら客人(ヂョチ)の智勇を(たた)え、またヒィ・チノとギィの一騎討ちに話題が及べばおおいに盛り上がった。ムジカが言った。


「まったく今回の(ソオル)は、客人がいなければ決して勝てなかっただろう。それほどに獅子は強く、英明だった。いくら感謝しても足りるということはない」


 これを受けてヒィは、


「我らが何かしたとしても末節のはたらき。やはりムジカやアステルノの兵が強かったから勝ったのだ」


 そう言って杯を干す。チルゲイらも深く頷く。ふと思い出したようにアステルノが言うには、


「俺にとって印象深いのは戦のことではなく、獅子の妻アンチャイだな。いろんな女を見てきたが、あれほど賢明な女は見たことがない。さすがは獅子の妻だ」


 同じ女性である打虎娘タゴサがたちまち応じて、


「いったい何があったのさ」


 尋ねたので事の次第を語れば、一人として感心しないものはなく、みなほうっと嘆声を漏らした。オンヌクドが言った。


「これから捕虜はハーンの下に送らねばならぬが、アンチャイ殿をハーンに献じればきっとあの方のことだ、放ってはおくまい。そのような賢夫人をして妾の(はずかし)めを与えてよいものだろうか」


 するとマクベンが憤然として立ち上がり、


「よいものか! 我らの手でアンチャイ殿を護ろうではないか!」


 諸将は喝采を送ったが、独りムジカは黙然として目を伏せた。(いぶか)しく思ってアルチンが問えば、答えて言うには、


「これは私戦ではない。ハーンの命令(ヂャルリク)で戦ったのだ。得た捕虜、家畜はすべてハーンに献ずるのが(ヂャサ)。アンチャイ殿を留めれば(ヂャサ)(たが)うことになる」


 マクベンが目を見開いて叫んだ。


(ヂャサ)だと!? アンチャイ殿を辱めるようなことがあれば、天下の好漢(エレ)の笑いものだ!」


 ムジカは(うめ)き声を漏らして渋面を作ると、


「そう興奮するな。私とて救いたいのはもちろんだ。何か手がないか考えている」


 傍ら(デルゲ)からタゴサが声を挙げて、


「しょうがないね。(ヂャサ)とか何とか難しい(ヘツウ)ことを言わずに、したいようにすればいいのに。こうなったら幾度も悪いけど、知恵者(セチェン)に知恵を借りたらいいじゃないか」


 そしてチルゲイのほうを見る。ムジカはまさに(ハラング)(ひら)かれた気分。

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