第三 九回 ①
アンチャイ独り神風を迎え衆庶を完うし
チルゲイ俄かに初志に還り行旅を云う
さて、チルゲイの策に嵌まって友軍を奇襲してしまったバラウンジャルガルは、数十騎を随えて遠く西方へと逃れた。
一方のギィは明るくなってきたのを幸い、軍を整えて残敵を掃討することに成功した。多くの将兵が降ったが、そこで初めて己が死力を尽くして戦った相手こそが獅子マルナテク・ギィだと知って、みな開いた口が塞がらなかった。
それはギィらも同じこと。彼らがバラウン麾下の兵と聞いて驚き、怒るよりまず首を傾げた。
「バラウンが叛意を抱くとは思えぬ。誰か知者の策略に嵌められたに相違ない」
ゴロ・セチェンの言葉に多くの将が頷いた。しかしバラウン自身が逐電してしまったために、真相は誰にも量り知れない。
もちろんこれを疑うものもあったが、ギィはひとまず無用の詮索を打ちきって戦後処理にかかった。総勢一万騎のうち、人馬ともに無事なのは僅かに中軍の二千騎のみであった。
「これではヤクマンとの決戦など思いもよらぬ。アイルに急を報せて、難を避けねばなるまい!」
コルブが主張すれば、続けてゴロが、
「むしろこれが敵人の策だとすれば、すでにアイルは殆うい。私が彼らであれば、迅速をもって鳴るセント氏に留守を襲わせ、一方の軍でこちらを追撃するだろう」
一同の顔にさっと緊張の色が走った。コルブが瞠目して、
「セチェンの言葉どおりなら、なおさら急がねば。俺が急使となってアンチャイ様にこれを伝えよう」
ギィは大きく息を吐き出すと、
「よし、そのとおりにしよう。我々も即座に帰途に就く!」
命を受けてコルブが駆け去り、マシゲル軍は隊伍を整えて端から順に出発した。幾許も行かぬうちに、後方に濛々と砂塵が上がるのが見えた。
「来た、追撃だ」
ゴロが呟く。ギィは自軍を見回して嘆息した。
「我が兵はすでに疲労困憊、どうして敵の精兵を迎えられようか。獅子の命運もここまでか……」
それを聞いたゴロはきっと目を見開いて言うには、
「らしくないぞ! とにかく駆けよう。ここより西南にケルテゲイ・ハルハ(※険しい盾の意)と呼ばれる要害がある。そこに辿り着ければ敵も決して追っては来れまい。命を保って後日を期そうではないか」
「西南といえばアイルから遠ざかってしまう。我が妻は、我が人衆はどうなる」
これにはさすがのゴロもぐっと言葉が詰まったが、気を奮い起こして言った。
「今は己が生きることのみ考えよ。生きてさえいればきっと機会は廻ってくる。ジョナン氏のムジカは好漢と聞く。獅子の妻たるアンチャイを決して粗略には扱うまい。天運を信じよう」
ますますギィは落胆して、
「これまで私は己の天分を恃みにこそすれ、天運に身を委ねたことはなかった。それが今では愛する妻すら護ってやれぬとは。獅子もときに野鼠にすら劣るということだ……」
しかし、すぐにギィの眼には光が満ちはじめた。そして言うには、
「私はこれを戒めとしてきっと再起を果たそう。ゴロよ、ひとときを忍ぶは恥ではないということだな」
「いかにも。恥とすべきは名に拘って道を損なうことだ。名は地に伏してもやがて顕れよう。しかし道を損なえば二度と返らぬ」
ギィは頷くと、高らかに告げた。
「みなのもの、全力で西南のケルテゲイ・ハルハを目指せ! 最後の力を振り絞れ! 遅れれば死あるのみだ!」
応じておうっと喊声が挙がり、すべての馬腹が蹴られる。マシゲル軍は俄かに疾駆し、一斉に馬首を西南へ向けた。マシゲルを追撃せんとやってきたムジカは、遠くこれを望んで言った。
「ほう、獅子はひとまず名を棄てて難を避けるか」
傍らの皁矮虎が勢い込んで言った。
「地の果てまでも追いましょう!」
ムジカはしばし考える風であったが、やがて言った。
「いや、執拗に追うことはない。オンヌクド、アルチン、二人に軽騎三千を与える。適当に追って、奴らが何処に逃れるのかを見届けたら戻ってこい」
両名は即座に意図を悟ると、三千騎を率いて離れていった。