第三 八回 ④
チルゲイ策を運らし敵陣に埋伏を施し
バラウン計に陥り闇夜に友軍を討つ
「チルチル、いるか」
不安を誰よりも感じていたのは将たるバラウンである。
「ここにおります、ご心配なく。機をお待ちください。将の不安は全軍の士気に影響いたしますぞ」
「ふ、不安などあるものか。異状がなければよい」
強がってみせたが、その拳はぎゅっと握られたまま。肌寒いほどであるにもかかわらず、額には脂汗を浮かべている。
また辺りは静寂に包まれる。気の遠くなるようなときが流れた。すでに夜半であろうか。突如、金鼓が轟いた。わあっという喊声が挙がり、馬の嘶き、刀槍の交わる音が一斉に巻き起こった。
「お、おお、遭遇したか!」
バラウンが立ち上がる。卒然としてチルゲイが現れて言った。
「ガロウ氏が敵の先鋒に出合い、交戦に入りました。座してお待ちください」
そして闇の中に消える。
「チルチル、どこへ行く!」
代わってミヤーンが現れて、
「敵はあわてて応戦もままならぬ様子。ここは定めのとおり金鼓を鳴らし、左方に待機する八氏族を前線に投入するときです」
そう言ったかと思うと、これも闇に消える。
「定めとは何だ、知らぬぞ!」
喚くと同時に八つの鼓とみっつの鉦が交互に轟いた。バラウンは吃驚して転げそうになる。
「ご心配なく。合図は滞りなくすみました。さらに十二隊を投入します」
そう言ったのはオンヌクド。しかし呼び止める間もなくすぐに去る。
「オヌオヌ、いったい戦況はどうなっているのだ!」
バラウンは焦って叫んだ。そうするうちにも右から左から干戈の交わる音、怒号が絶え間なく聞こえてくる。馬蹄の響きが遠ざかり、また近づき、大地が揺れる。
そこへまた闇の彼方から来るものがあった。これぞ神道子ナユテ。
「敵もさるもの、頑強に抵抗しております。ここは力戦あるのみ、依然我が軍の優位は動いておりません。大将の気概が勝敗を決するでしょう。ときどき例の合図を出してください。全軍それに従う手はずになっています。合図は鼓八つ、鉦みっつです。いずれ捷報がもたらされるでしょう」
「そ、そうか。それはそうとチルチルらは……」
「督戦に当たっております。戦が終わったら会えるでしょう」
そう言って、やはり去っていく。
「待て!」
呼び止めたが帰ってこない。戦はまだまだ続いている。そもそもバラウンは前線で勇戦するべき豪傑。後方で大軍を指揮した経験もない上に、このように視界の利かぬ戦闘は初めてだったので、はなはだしく不安が募る。
恃みの四人もいないとあっては為す術もない。ただナユテの言葉を信じて、ときどき金鼓を鳴らさせるばかり。
ところが一向に干戈の音は已むことがない。それどころかますます人馬の声が辺りに満ち満ちて、ときに天空から降ってくるような錯覚に見舞われる。
「……戦はどうなっているのだ」
やがて少しずつ霧が流れはじめた。それは次第に涼風となり、また風の来る方角が徐々に明るくなりはじめた。
「おお、朝だ」
白くぼんやりとした光が、彼方から這ってくるように伸びてきて、風が衣を剝ぐように霧を払ってしまうと、闇は遠くなり、青く視界が開けてきた。
「戦況は……」
バラウンはやっと周囲を見渡して、あっと驚いた。倒れ伏す人馬の山が築かれた凄惨な状況に目を瞠ったのではない。
種々の旗が雑じる友軍と戦っている敵の旗を見れば、それこそまさに主君たるマルナテク・ギィの金獅子旗。
「あ、あ、あ、あれはギィ様の……!!」
あまりのことに立ち尽くしていたが、はっと我に返るとあわてて叫んだ。
「止めよ、戦を止めよ! 撤退の合図を!」
しかし金鼓隊は困惑するばかり。それもそのはず、決められた合図に撤退を命ずるものがなかったからである。
「何でもよい、鼓を、鉦を、銅鑼を鳴らせ!」
どうなるものでもないと知りながら、バラウンは怒鳴った。やむなく一斉に金鼓が打ち鳴らされる。
これに惑ったのはもちろん勇戦する将兵たち。何の合図かさっぱり判らず、俄かに矛先が鈍る。マシゲル軍は得たりとばかりに反撃する。
「違う、違う! 我らは友軍だ!」
独りバラウンが叫んだとて誰に通じるわけもない。そこではっとナユテの言葉を思い出した。
「そうか! 『夜襲に友軍相討てば必ず敗れる』とはこのことだったか! 謀られた!」
ときすでに遅く、両軍甚大な被害を出したあとであった。眼下ではいまだ激闘が続いている。
「ああ、このままではギィ様に合わせる顔がない。自害して詫びるべきか……」
悶々と考え続けたがどうにもならない。側近の一人が恐る恐る言った。
「ことここに至ったからには、ギィ様の下に帰るわけにはいきません。いっそ逃げましょう。いずれ時宜を見て赦しを請うべきかと……」
「……ううむ、やむをえん。一旦身を隠そう」
バラウンは顔を赤黒く染め、ぎりぎりと歯噛みしながら決断すると、手近の兵を掻き集めて丘を下った。そろそろと戦場を離れると、あとは一目散に逃げだす。
随ったのは僅か数十騎。昨日まで一万騎の将だったのが一夜明ければこの有様、これも宿運というほかない。
まさに奇人の計略は数万騎を東西に弄び、一夜を徹して獅子を疲れしめ、ついにその一肢を奪うということになったわけだが、このことから一将おおいに面目を躍如し、奇人は再び道中の人となる。
果たしてヤクマンとマシゲルの戦はどうなるか、また失意のバラウンジャルガルは何処に逃れるか。それは次回で。