第三 八回 ③
チルゲイ策を運らし敵陣に埋伏を施し
バラウン計に陥り闇夜に友軍を討つ
あれこれ密議を凝らしているところに、待っていたギィからの早馬がやってきた。やはりバラウンに代わってチルゲイらが会う。言うには、
「ヤクマンより軍使が来て、明朝よりこれと決戦することになりました。すぐに軍を興して合流するようにとのご命令。場所はジャランカイ平原。くれぐれも遅れることがないようお伝えください」
「承知。命令のとおりにいたしましょう」
使者が去ると、チルゲイは馬を牽くよう命じて、バラウンのもとへと向かった。彼は西方に狩りに出かけていたのである。ほどなくバラウンを見つけると、息せき切ってこれに見えた。
「どうした、あわてて」
「ヤクマンとの戦が始まります。すぐにお戻りください」
これを聞いておおいにあわてると、狩りの獲物の数も数えずに大急ぎでクリエンに帰る。ゲルに入って腰を下ろすと早速尋ねた。
「戦とはいったいどういうことだ」
「先ほどギィ様より急使が参りまして、バラウン様もすぐに合流するようにと」
「ではすぐにも軍を編成せねばならんな」
「それはお委せください。すでにいつでも軍制に移行できるよう、諸氏は配置されております。あとはバラウン様が命じるばかりです」
バラウンは満足そうに鼻を鳴らすと、
「さすがは我が翼。では出陣の命を下す。二刻ののちには閲兵できるように」
チルゲイは揖拝して退出すると、諸氏にこれを伝えた。たちまちクリエンは騒然となり、上を下への大騒ぎ。それでも二刻後には何とか形が整う。旗も何もかも雑多だが、およそ一万騎が整列した。
バラウンはこれほど多くの兵を指揮するのは初めてだったので、鼻息も荒く壇に上がると、
「ギィ様の名を慕って集まった賢明な諸君! ついに己の力を示すときが来たぞ。この戦で功のあったものは俺がギィ様に推薦し、必ずや厚く報いよう!」
わあっという歓声が辺りを揺るがし、どんどんと鼓が鳴らされる。騒ぎが鎮まると代わってチルゲイが言った。
「先鋒は、ガロウ氏のアルバガン(※アステルノのこと)! 次いで……」
編成が発表されると、名を呼ばれたものから次々にクリエンを離れる。最後に中軍が出発した。バラウンは傲然と馬上に胸を反らし、並々ならぬ気負い。並走するチルゲイがつと馬を寄せて囁いた。
「私に一計がございます。この策を用いていただければバラウン様の勇名はいやが上にも高まり、必ずやギィ様の嘉賞に与かりましょう」
「ほう。策というのは?」
何げない風を装おうとしてはいたが、その眼はぎらぎらと輝いている。チルゲイは内心おかしかったが、もちろん噫にも出さずに言った。
「決戦の地は、東方のバウルン平原です。ヤクマン軍は、探ったところによりますと北のベルチド平原に駐屯しています。おそらく夜半に移動を始めて、途中カラバルを通ります。そこで我らは先んじてかの地に陣を構え、兵を伏せてこれを襲うのです。いくらヤクマンとはいえ、決戦の前に襲われるとは夢にも思いますまい。大勝利疑いなしです」
「しかしそれは卑劣というものではないか」
そう言いながらも、バラウンは大きく心を動かされている様子。チルゲイは意を強くして言った。
「兵を用いるに卑劣だとか邪道だとかはありません。古人も『用兵はもとより道にあらず』と謂っております。マシゲル数万の人衆の命運は、バラウン様の決断ひとつにかかっておりますぞ」
口を閉ざしてそっと顔色を窺えば、ううむと唸って考えるふりをしていたが、実はもう肚は決まっていた。
「よし、チルチルの策を採ろう。お前の言うことなら、間違いあるまい」
「名将の決断です。早速カラバルへ向かいましょう」
バラウンは名将と持ち上げられておおいに気を好くしたが、くどくどしい話は抜きにする。
夕刻が迫るころ、辺りに少しずつ霧が漂いはじめた。バラウン率いる騎兵約一万は、漸くカラバルに辿り着いた。カラバルとはいかなるところかといえば、馬の通うべき道の両側が高く盛り上がり、伏兵には格好の地勢。
漂いはじめた霧は次第に濃さを増し、チルゲイの指揮で兵を伏せ終えるころには視界はすっかり閉ざされてしまった。すでに陽は地平の彼方に没している。
バラウンは不安になって尋ねた。
「霧が濃いな。不都合はないか」
チルゲイは声高に答えて言うには、
「何をおっしゃいます。これぞ天佑、我が軍の勝利は疑う余地もありません」
ナユテが言った。
「それでは各隊に合図を伝えてまいります。夜襲でもっとも忌むべきは同士討ちです。バラウン様、よく覚えておいてください。『夜襲に友軍相討てば必ず敗れる』と申します」
「おうおう、それが心配だったのだ。嘱んだぞ」
チルゲイとナユテは連れ立って中軍を離れた。二人は急いでアステルノの陣へ赴き、詳細に手はずを整えると、何食わぬ顔で戻ってきてバラウンには適当に報告をすませる。あとはことが起こるのを待つばかり。
霧に加えて闇の帳が下り、目を凝らさねばすぐ先も見えぬほど。いったい味方の兵が周りにいるのかどうかも判らない。みな息を潜めてじっと堪えている。
あまりにも静かで、一万もの兵がいるとはとても思えない。己を残してみな去ってしまったのでは、とすら思わせる。